松平光長
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大名の「松平光永」とは別人です。

 凡例松平 光長
時代江戸時代前期 - 中期
生誕元和元年11月29日1616年1月18日
死没宝永4年11月17日1707年12月10日
改名仙千代(幼名)→光長
戒名慧照院殿前越州太守従三位羽林中郎開心一法大居士
墓所東京都港区天徳寺
新潟県魚沼市根小屋の永林寺
官位従四位下左近衛権少将越後守従三位右近衛権中将
幕府江戸幕府
主君徳川秀忠家光家綱綱吉
越後高田藩
氏族越前松平宗家
父母父:松平忠直
母:勝姫
兄弟光長、寧子鶴子、女子、永見長頼永見長良、閑
妻正室:登佐姫
側室:丹羽氏
綱賢国姫、稲姫、綱国宣富
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松平 光長(まつだいら みつなが)は、江戸時代前期の大名越後高田藩主。結城秀康の孫。徳川家康の曾孫、徳川秀忠の外孫に当たる。
生涯
高田立藩まで

元和元年(1615年)、北荘藩松平忠直の嫡男として越前北荘(福井)城にて誕生した。母は将軍徳川秀忠の娘勝姫。元和7年(1621年)、江戸へ赴き、外祖父である将軍秀忠に初御目見した。以後の数年を江戸屋敷にて養育される。父忠直は秀忠と仲が悪く、粗暴な一面もあったなどとされるが、元和9年(1623年)2月に幕府により豊後国配流とされた。当主不在となった北荘藩から重臣笹治大膳が江戸に派遣され、当時江戸に住んでいた仙千代(光長)を3月に越前に迎え入れた。

当初、幕府からは島田重次[1]高木正次らが派遣され、光長の相続の許可に対する内示があったが、その後なんらかの方針転換があったのか、7月、幕府から秋元泰朝近藤秀用・曽根吉次・阿倍正之等が派遣され、越前の冬の気候の厳しさを理由に、仙千代ら母子は江戸に帰されることになった。翌年4月、江戸城に越前松平家一門を集めた場にて、幕府の指示により、叔父である高田藩主松平忠昌(福井松平家の祖)を忠直の後の北荘藩主とすることが申し渡された。忠昌は兄や仙千代の行く末を思いやって当初これを拒んだが、幕府から仙千代には別に配慮がなされるとの約束を取り付け、引き受けたという話が伝わる[2][3]。幕命により、秀康以来の筆頭家老である本多富正(幕府からの御附家老)および富正の選抜による百余名の家臣は福井藩の付属とされ、残りの家臣らと仙千代には忠昌の移動により空いた越後高田に26万石が与えられ、仙千代を藩主とする高田藩が立藩した[4][5]。福井藩の出来事に関する諸文献を収録した『国事叢記』[6]に拠れば、「忠昌は北荘入部に際し、松平忠直旧臣に対して越後への同行、北荘への出仕、他家への退転は自由にさせ、約500名の家臣の内の105名が忠昌に出仕し、大部分の家臣[7]は光長に随って高田藩臣となった。また、老臣(重臣)のうち本多成重は大名になり、小栗重勝・岡島壱岐守・本多七左衛門は光長に同行し、大名とする幕命を断った本多富正のみ忠昌に出仕した。」となり、幕府と富正に選ばれなかった残りの家臣が、光長の高田立藩時にその家臣となったと推測される。
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この節の加筆が望まれています。

寛文5年12月(1666年2月)、領内を地震が襲い(越後高田地震)、田畑や町が荒廃した。豪雪の時期だったこともあり、藩内の建物が多く倒壊し、高田城にも被害が出た。またこの地震により、筆頭家老小栗正重や次席家老荻田長磐らの家臣150人(120人とも)余が、倒壊した建物により圧死した。これにより藩内の人材が多く失われたと推測される。同日深夜には城下で火災が発生した。藩領内での死者は史料により、600人とも1500人ともされる。藩は幕府から金五万両を借り、復興に努めた。

旱魃に備えて中江用水が整備された。元々あったおよべ川用水を拡張する形で延宝2年(1674年)から始め、延宝6年(1678年)に完成した。これにより高田藩は、表高26万石だが実高は40万石弱とも言われる米生産量となったとされる説がある。

また、大老酒井忠清と親しかったらしく、忠清は徳川家綱死去後の後継将軍に皇族幸仁親王)を迎えて将軍を擁立しようとしたとされるが、この際に光長も忠清に賛同したとされる。
福井藩への介入

母勝姫の強い要望により、光長の娘の国姫を福井藩主松平光通に嫁がせるための工作が行われた。婚約は成立したものの、高田藩の福井藩に対する過剰な干渉を危険視した幕府や、福井藩内からの防御的圧力があり、実際の婚姻は遅れた。勝姫は姉千姫に依頼し、4代将軍家綱の代に至ったところで「3代将軍家光が決めた婚姻であり、つまりは家光の遺命である」として幕府に対して圧力をかけ、寛文5年(1655年)にようやく正式に結婚が成立した。この時既に両名19歳であり、当時の大藩の藩主の正妻の婚姻としてはかなり遅めであった。

夫婦仲は悪くなかったが、夫婦の間に男子は生まれなかった。光通には妾腹の子権蔵(のちの松平直堅)がいたが、勝姫らは光通に圧力をかけ、「国姫からの出生ではない男子には相続させない」とする起請文を書かせた。この光長らによる圧力のため、光通と国姫の仲も急速に悪化し、さらに35歳になった国姫は寛文11年(1671年)、もはや男児を望めないことを苦とし、勝姫や光長の期待に添えないことを侘びて自殺した。己らの圧力が招いた悲劇であるにもかかわらず、この自殺の原因は件の権蔵にあるとして、勝姫と光長はこの権蔵の命を狙ったと伝えられる。この権蔵は福井藩を出奔した。しかしさらに圧力を受けた光通は幕府に対し、公的な子ではないと届を出さねばならなくなった。光通は延宝2年(1674年)3月24日、庶弟である松平昌親に家督を譲るようにとの遺書を残して自殺した。これらは全て光長ら母子の仕業であり、幕府の印象の悪化を招いたと推測される。
越後騒動詳細は「越後騒動」を参照

延宝2年(1674年1月30日、嫡子綱賢が死去した。綱賢は無嗣であり、光長も他に男子がいなかったため急ぎ世嗣を決めねばならなくなった。重臣たちの評議の結果、御連枝永見長頼の子万徳丸を世継ぎとすることが決まった。万徳丸は元服して4代将軍家綱から偏諱をいただき松平綱国と名乗り、三河守に任官した。ところが、この縁組の過程を巡って筆頭家老小栗正矩ら逆意方と御連枝永見長良ら御為方による対立が激化し、いわゆる越後騒動に発展した。


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