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時代安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕慶長元年10月30日(1596年12月19日)[注釈 1]
死没寛文2年3月16日(1662年5月4日)
改名長四郎、三十郎(幼名)→正永→信綱
別名知恵伊豆
戒名松林院殿乾徳全梁大居士
墓所埼玉県新座市野火止の平林寺
官位従五位下、伊豆守、従四位下、侍従
幕府江戸幕府小姓→小姓組番頭→六人衆
→老中格→老中→老中首座→老中
主君徳川家光→家綱
藩相模国内→武蔵忍藩主→武蔵川越藩主
氏族大河内氏→長沢松平家(大河内松平家)
父母父:大河内久綱、母:深井好秀の娘
養父:松平正綱
兄弟信綱、重綱(義弟)
妻正室:井上正就の長女
子輝綱、吉綱、伊織、信定、信興、堅綱、
千万(酒井忠当室)、亀(土井利隆室)、
久満(秋元忠朝室)、多阿、百(松浦棟室)、八
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松平 信綱(まつだいら のぶつな)は、江戸時代前期の大名で武蔵国忍藩主、同川越藩藩主。老中。官職名入りの松平伊豆守信綱の呼称で知られる。 慶長元年(1596年)、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として武蔵国[注釈 2]で生まれる。父の久綱は伊奈忠次配下の代官として小室陣屋付近(埼玉県北足立郡伊奈町小室)に居住していたので、当地で生まれたとする説が有力である。生母・深井氏 慶長6年(1601年)に叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる。あるとき正綱が一人でいると、当時は三十郎と名乗っていた信綱がやって来て、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしいです」と嘆願した。正綱は笑いながら「そなたはまだ幼少の身分で本名を捨て我が名字を望むのはなぜか?」と訊ねた。「私の本名では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子にもなれば御座近く御奉公できるかもしれない」と答えた。正綱は不憫に思い、「なるほど、望みのように養子にしよう。けれども一通り父母に申してから字(あざな)を遣わそう」と挨拶した。両親にもこの旨を話して事が済むと、信綱は大いに喜んで「今日よりは松平三十郎なり」と述べたという[1]。 慶長8年(1603年)9月3日、将軍世子の徳川秀忠に、11月には正綱に従って伏見城に赴き、11月15日に徳川家康と初めて拝謁した[2]。慶長9年(1604年)7月17日に秀忠の嫡男・徳川家光が誕生すると、7月25日に家光付の小姓に任じられて合力米3人扶持になった。慶長10年(1605年)12月3日に5人扶持となる。 慶長16年(1611年)11月15日に前髪を落として元服し、正永と名乗る。慶長18年(1613年)1月28日に井上正就の娘と結婚した。ただし慶長15年(1610年)から慶長16年(1611年)にかけて胃病を患い在郷で養生していたという。 元和6年(1620年)1月20日に500石を与えられた[注釈 3]。このとき家紋も三本扇とした[3]。この年の12月下旬に養父の正綱に実子の松平利綱(正次・左門)が生まれると、信綱は「正」の通字を継ぐのは実子であるとして自らは名を正永から信綱と改め、元和9年(1623年)6月15日に御小姓組番頭に任命され、新たに300石の加増を受けた。7月には家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。 寛永元年(1624年)5月16日には1,200石を加増された。寛永3年(1626年)7月には家光の上洛に再度従った。寛永5年(1628年)1月5日には相模国高座郡・愛甲郡で8,000石の所領を与えられて[注釈 4]、合計1万石の大名となった。このときに一橋門内において屋敷を与えられた。寛永7年(1630年)5月17日には上野国白井郡・阿保郡などで5,000石を加増される。 寛永9年(1632年)1月に大御所だった秀忠が死去すると、信綱は養父と共に遺銀400枚を賜った[4]。4月13日に家光の日光山参詣に従う。11月18日には老中と小姓組番頭を兼務した[注釈 5]。 寛永10年(1633年)3月23日、阿部忠秋や堀田正盛、三浦正次、太田資宗、阿部重次らと共に六人衆[注釈 6]に任命された。5月5日、阿部忠秋や堀田正盛らと共に家光より老中に任じられ[5]、同時に1万5,000石を加増されて3万石で武蔵忍に移封され、忍城付の与力20騎・同心50人を預けられた。この年の5月から井上正重 寛永11年(1634年)3月3日に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定。6月には家光の上洛に嫡男・輝綱と共に従い、6月27日に家光より駿府城で刀と盃を賜った。閏7月29日に従四位下に昇叙される。 寛永12年(1635年)10月29日、それまで兼務していた小姓組番頭を罷免された[注釈 7]。
生涯
出生
養子
家光の小姓・元服
出世の道