この項目では、徳川家康の長男について記述しています。徳川家康の叔父の同名の人物については「松平信康 (源次郎)」をご覧ください。
「松平信安」とは別人です。
凡例松平 信康
岡崎三郎信康像(勝蓮寺
松平信康(まつだいら のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は関口親永(瀬名義広)の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に安祥松平家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った。 一般的には松平信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)にはすでに徳川へ改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたのではないかとする説がある。江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家・御三卿のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「岡崎三郎松平信康」に格下げされたというものである[1]。 だが織田信長が佐久間信盛に宛てた天正3年(1575年)6月28日付書状の中において、娘婿の信康を「松平三郎」と呼んでいることが明らかになり、家康が徳川姓に改称した後も信康は松平姓のままだったことが判明した[2]。 永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(のちの徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。 永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。
名乗り
生涯