大名の「松平乗利」とは別人です。
凡例松平乗命
松平乗命
時代江戸時代後期 - 明治時代
生誕嘉永元年6月13日(1848年7月13日)
死没明治38年(1905年)11月15日
改名誠之助(幼名)→乗命
戒名神葬のため戒名は無し
墓所東京都台東区上野公園の寛永寺春性院
東京都台東区の上野墓地
松平 乗命(まつだいら のりとし)は、江戸時代後期の大名。美濃国岩村藩第8代(最後)の藩主。乗政流大給松平家8代。官位は従五位下・能登守。維新後子爵。 嘉永元年(1848年)6月13日、先代藩主・松平乗喬の次男として生まれた。 安政2年(1855年)、父の死去により8歳で家督を嗣いで岩村藩主となった。 万延元年(1860年)12月に従五位下に叙位され、能登守となった。 慶応3年(1867年)7月に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。 しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年)2月に新政府に恭順した。 慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜が大政奉還をすると朝廷は、まず10万石以上の諸侯を京都へ召し、21日には1万石以上の大名にも上京すべき旨を達した。 当時岩村藩主の松平家乗は江戸にいたが、江戸家老の澤井市郎兵衛が佐幕党の幹部であったので「主家は徳川家の譜代、藩祖以来の縁故を顧みれば、徳川家と存亡を共にする外情義他にみるべきなし」と持論を主張し動かなかった。 岩村城にいた重臣たちは藩主が上京することで意見が一致し、岩村と江戸とで藩論を二分する事態となった。 岩村藩の文学者の原田文嶺らは勤王の事に従おうとしたが、藩命によってより蟄居を申し付けられた。 ついで平尾?蔵が勤王の説を述べて幽閉された。11月21日、岩村藩では反論が二分したままで結論が出ないため、謹慎中であった岩松傳藏に京都へ上京させ、情勢を視察させた。 岩松は12月20日に岩村へ帰着し、乗政寺にて藩臣が会議を行った。その会議において藩論は勤王に定まり、藩主の上京を促すべく江戸屋敷に急行した。佐幕党の幹部であった澤井市郎兵衛とその息子は、藩主の上京を抑止した理由で蟄居を命じられて岩村へ送致されることになったが、その途中の小田原宿で脱走し、幕脱走士に加わって各地で戦った。 慶応4年(1868年)1月21日、官軍は京都を出発し江戸へ向かった。2月、岩村藩は官軍に帰順し征東兵を出し東山鎮撫使に属した。 1月27日に官軍(中山道鎮撫総督)は沿道の諸藩に朝廷へ従うように布告した。岩村藩は丹羽瀬市左衛門が、藩主の松平乗命が徳川慶喜に仕えていたことを陳謝し免罪を請うた。 4月に岩村藩は、苗木藩および尾張藩と共に信州防衛のために出兵するように朝命を受け、岩村藩と苗木藩は中山道を松本を経て善光寺に到り守備に就いた。しばらくして、信州防衛を免ぜられ甲府守備に転じたが、程なく帰藩した。 8月6日に松平乗命が上京のため出発し、8月15日に京都へ到着。8月20日に京都御所へ参内し、忠誠を誓った。それにより京都鞍馬口の警衛を命じられ、部署に付いて奉仕した。 明治元年(1868年)12月、駿河国内の岩村藩領5,270石を静岡藩主の徳川家達に渡し、その代わりに美濃国土岐郡内の5,286石6斗4升が岩村藩領になった。 明治2年(1869年)、乗命は版籍奉還により岩村知藩事に任じられたが、 明治4年(1871年)2月、東京府貫属に命じられ、7月には、廃藩置県により知藩事を免官された。 明治25年(1892年)7月、従四位に叙せられたが、後年、従三位に叙せられた。 明治38年(1905年)11月15日、東京で卒去。神葬が行われた。
大政奉還以前
大政奉還以後