松島局(まつしまのつぼね、生没不詳)は、江戸時代中期の女性。江戸幕府10代将軍・徳川家治の乳母であり、大奥の御年寄。本名は不詳。 元文2年(1737年)、9代将軍・徳川家重の嫡男・家治(幼名・竹千代)の乳母として召し出され、江戸城西の丸御殿へ入った。宝暦10年(1760年)に家治が10代将軍に就任するのに伴って本丸御殿へ移り、将軍付き御年寄として大奥を取り仕切った。 家治の将軍就任同年から明和9年(1772年)まで長らく筆頭御年寄の地位に君臨し[1]、絶大な権力を振るっていたが、安永3年(1774年)からは同じく将軍付き御年寄であった高岳が筆頭となっており、松島局は忽然と表舞台から姿を消した。生没年、墓碑なども明らかとなっていない[2]。 前将軍・家重の御次として仕えていた於知保を老中・田沼意次と共謀して家治の側室に推薦したと云われている。その後、大奥の女中であった於品を自分の養女にし、同様に側室に推薦したとされる。この於品は、家治の御台所・五十宮倫子が京都から江戸へ下向する際に随行した女中であり、松島局・田沼派の権力拡大を危惧した御台所付き上臈御年寄・広橋が、その威光をはばかり、あえて於品を松島局の養女としてから側室に差し出したという説もある[3]。
目次
1 生涯
2 逸話
3 参考文献
4 脚注
生涯
逸話
参考文献
雲村俊慥『大奥の美女は踊る』(PHP研究所、2006年)
高柳金芳『大奥の秘事』(雄山閣、2003年)
脚注^ 尚、明和元年の御年寄の序列は、松島を筆頭に高岳、浦尾、岩瀬、滝川、むめ田、清橋の順である(「大奥 女たちの暮らしと権力闘争」新紀元社)
^ 鈴木由紀子「大奥の奥」(新潮新書)p70
^ 清水昇・川口素生「大奥 女たちの暮らしと権力闘争」(新紀元社)p108、109
更新日時:2017年2月12日(日)11:00
取得日時:2019/08/01 00:48