松岡洋右
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家松岡 洋右
松岡(1932年)
生年月日1880年3月4日
出生地 日本 山口県熊毛郡室積村(現・山口県光市
没年月日 (1946-06-27) 1946年6月27日(66歳没)
死没地 日本 東京都文京区
出身校明治法律学校(現・明治大学
オレゴン大学
前職外務省官僚
南満洲鉄道理事・総裁
所属政党(立憲政友会→)
(政党解消連盟→)
無所属
称号法学士
第63代 外務大臣
内閣第2次近衛内閣
在任期間1940年7月22日 - 1941年7月18日
第18代 拓務大臣
内閣第2次近衛内閣
在任期間1940年7月22日 - 1940年9月28日
衆議院議員
選挙区山口2区
当選回数2回
在任期間1930年2月21日 - 1933年12月28日
テンプレートを表示

松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年明治13年)3月4日 - 1946年昭和21年)6月27日)は、日本外交官政治家

南満洲鉄道(満鉄)総裁を務め、満洲国の実力者「弐キ参スケ」の一人とされた。第2次近衛内閣では外務大臣に就任し、日独伊三国同盟日ソ中立条約締結を推進。しかしドイツのソ連侵攻後は南進論が大勢を占める政府で北進論を主張し、第3次近衛内閣発足を機に事実上外相を解任された。アメリカ合衆国外交官ジョセフ・グルーと親交があり、佐藤栄作は義理の甥にあたる(妹の娘婿で養子)。
生涯
アメリカ留学

1880年(明治13年)3月4日廻船問屋の四男として、山口県熊毛郡室積村(のちの光市室積)で生まれた。

洋右が11歳の時に父親が事業に失敗してしまい破産したことや、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから、1893年(明治26年)に留学のため13才で渡米する。渡米後は周囲の人々が多く信仰していたキリスト教の影響を受け、自らも入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。

ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、伴新三郎商店で働きつつオレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方で、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。

卒業後も滞米して様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグなどの大学院に進学することを目指していたとも考えられるが[1]、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった[2]
外務省時代

帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台明治法律学校明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした[3][4]。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意する。1904年(明治37年)に外交官及領事官試験に首席で合格し(一番だったのは英語だけという説もある[5])、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある[6]

外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任する。その頃、満鉄総裁だった後藤新平三井物産山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう[誰によって?]。短期間のロシアアメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。1919年(大正8年)パリ講和会議に随員(報道係主任)として出席し日本政府のスポークスマンとして活躍した。また同会議で近衛文麿と出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年大正10年)、外務省を41歳で退官した。
満鉄から代議士へ立憲政友会代議士時代の松岡洋右

1921年(大正10年)早川千吉郎の引き抜きにより、南満洲鉄道(満鉄)の理事に就任する[7]1927年(昭和2年)に副総裁(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。

1930年(昭和5年)、満鉄を退職する。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里の山口2区から立候補(政友会所属)し、初当選する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:152 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef