松岡弘
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この項目では、元プロ野球選手について説明しています。長野県の教育者については「松岡弘 (教育者)」をご覧ください。

松岡 弘東京大学硬式野球部 投手コーチ
基本情報
国籍 日本
出身地岡山県倉敷市
生年月日 (1947-07-26) 1947年7月26日(76歳)
身長
体重186 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1967年 ドラフト5位
初出場1968年10月1日
最終出場1985年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


岡山県立倉敷商業高等学校

三菱重工水島

サンケイアトムズ
アトムズ
ヤクルトアトムズ
ヤクルトスワローズ
(1968 - 1985)

監督・コーチ歴


ヤクルトスワローズ (1986 - 1989, 2003 - 2005)

西多摩倶楽部

三重スリーアローズ (2010)

北照高等学校

相生学院高等学校

東京大学

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

松岡 弘(まつおか ひろむ、1947年7月26日 - )は、岡山県倉敷市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ解説者。現在は東京大学運動会硬式野球部の投手コーチを務める。

ヤクルト(前身含む)一筋の選手で初優勝・日本一に貢献した大エースであった。
経歴
プロ入りまで

倉敷商(1年先輩に星野仙一がいた)ではエースとして1965年夏の県予選準決勝に進むが、平松政次を擁する岡山東商に日没引き分け再試合の末に敗れ、甲子園出場はならなかった。卒業後は三菱重工水島に入社。1966年1967年クラレ岡山の補強選手として都市対抗野球大会に出場。1967年の都市対抗では準々決勝に進み先発を任されるが、日立製作所のエース村井俊夫に本塁打を喫し早々に降板、目立った成績は残せなかった[1]。同年にドラフト5位でサンケイアトムズの指名を受けるも、4位までの選手の入団が決まったことを理由に契約見送りとなる[2]。これに奮起して三菱重工水島で快投を重ね、1968年にはチームの都市対抗初出場の原動力となる。同大会では1回戦で日本鋼管高橋直樹と投げ合い、0-1で惜敗[1]。これでサンケイ側も認識を改め、頭を下げたことから同年8月に入団[3]
現役時代

1969年から快速球を武器に先発ローテーションに定着し、規定投球回(21位、防御率3.70)にも到達。

1971年には三原脩が監督に就任、オープン戦から松岡を起用し続け、開幕投手に指名する[4]。この年はリーグ最多の15敗を記録するが、粘り強い起用に応えプロ入り初の2桁勝利となる14勝を挙げる。

1972年は17勝18敗と、セ・リーグでは大石清以来の2年連続リーグ最多敗戦。

1973年は21勝18敗と勝星を大台に乗せた。松岡は「三原さんを筆頭に、チームで僕を柱に育ててくれて、やっぱり期待に応じようとして、僕も精神的にも強くなれたかな」と語っている[4]

チームは1973年までBクラスと低迷していた。松岡は当時にチームについて「チームワークの欠如に限ると思う。個性的で、我が強い選手ばっかりが集まっていたんだよ。特に野手に。豊田さんなんてすごいよ。自分が飲みに行きたい、うまいものを食べに行きたいっていう日に、早く試合を終わらせろという雰囲気を出すわけ。そういうときに、僕なんかがボールスリーにしちゃうと、小石が飛んでくる。ばっと見たら『打たせろ、ストライク取れ。』と豊田さんだけじゃなく、『これじゃ銀座に行く約束断らなきゃなあ』とか嫌味を言う人もいっぱいいた。そういう時代。先輩のいうことは絶対服従だからね。なんとか打たせたら、今度はエラーしやがる。そうしたら知らんぷりだから。『三振取らないお前が悪い』とそういう感覚のチームだもん。チームがどうなろうと関係ない。そういう考え方の人がいっぱいいたから。チームワークなんてありゃしないよ。ゲームになったら勝とうとはする。でも監督の言うとおりに選手は動かないから。特にベテランが。個人の力は確実についてきてはいたと思う。若松だったり、安田だったり。でも、全員同じ方向を向いてやらなきゃ勝てないよね。」と語っている[4]

1975年には安仁屋宗八に次ぐリーグ2位の防御率2.32を記録。

1977年は9勝10敗となり、2桁勝利は6年連続までで一時途絶えるが、打撃面では投手としては異例の5本塁打を放った。

1978年は16勝を挙げ、球団史上初のリーグ優勝、日本一に貢献。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、同じ岡山出身の大杉勝男とともに活躍。4試合に登板し2勝2セーブを記録、最終第7戦では足立光宏に投げ勝ち完封勝利を飾った[5]。同年の沢村賞を受賞。

1980年最優秀防御率のタイトルを獲得。

1983年のシーズン終了時点で通算190勝であり、200勝達成・名球会入りまであとわずかで、1983年にも11勝を挙げていたことから十分射程圏内と思われたが、同年オフに首を痛め、1984年から1985年の2年間はわずか1勝に終わり、あと9勝及ばずに1985年限りでの現役引退となった[6]
現役引退後

引退後はヤクルト二軍投手コーチ(1986年 - 1989年, 2003年 - 2005年)、西多摩倶楽部監督(2006年 - 2008年)、三重スリーアローズ監督(2010年)を務めた。1度目のヤクルト退団後はテレビ東京1990年 - 1998年)→テレビ朝日1999年 - 2001年)・ニッポン放送(1990年 - 2001年)→CS系テレビ2002年)、2度目のヤクルト退団後は東京メトロポリタンテレビジョン2006年 - 2007年)で野球解説者を務めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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