松山_(福島県昭和村)
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松山
大字
松山の全景
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日本
都道府県 福島県
市町村昭和村
郵便番号968-0101
市外局番0241
ナンバープレート会津

松山(まつやま)は、福島県大沼郡昭和村の大字[1]
地理常盤橋

会津地方南部の大妻山麓の野尻川流域に位置する。地名の由来は、地内にある三松山から[1]。標高は400m程[2]。昭和村地方は玉川と野尻川が下中津川で合流し、北方に流れ松山を経て下流の狭い谷を通るため、集中豪雨の際は水がはけきれないため、昔から繰り返される洪水に悩まされていて[3]、明治以降の記録によると2、3年に一度は必ず洪水の被害に遭う程だった[4]。また洪水により橋が流されるのも悩みの1つで、松山部落ではそれに備えて部落共有の橋林と呼ばれる杉林を所有していて、架橋のための木材を育てるような実情だった[3]

夏から秋にかけ洪水の被害に悩まされる一方、冬になると豪雪に見舞われ各部落間との連絡を遮断されるような年もあった。特に1963年(昭和38年)2月は3mを超える積雪に見舞われ、福島県は災害救助法を適用。この時、松山部落で30戸が雪崩の危険に晒されたと報告されている[5]。また特別豪雪寒冷地域の昭和村の中でも松山地区は積雪量が多く1981年(昭和56年)と1991年(平成3年)には2.75mの積雪深を記録。また観測記録が残っている中で昭和村の最大降雪量も松山地区で記録されており、1981年(昭和56年)に18.62mを記録した。
歴史三嶋神社
旧石器時代?古代

松山地内では、向本田遺跡・上原遺跡・焼山遺跡の3つの遺跡が確認されている。最初に挙げた向本田遺跡は、松山部落の北方500mの字向本田地内に位置している。この付近一帯の耕地整理の際、磨製石斧が出土。現在は一面が水田化されているため遺跡の確認はできない状態となっている。次に、上原遺跡は松山集落中心部に架かる常磐橋を渡り右折し、部落を出た後の南側一帯に位置する緩やかな傾斜地全面が散布地となっている。打製石斧の完成品が1点採集されている。最後の焼山遺跡は前述した常磐橋を渡り左折して50m位にある右側の山の上に位置する。この地域を開墾した際に打製石斧が出土した。いずれの遺跡においても、年代の詳細は不明[6]
近世

近世に差し掛かかる頃、蒲生氏が会津に入部すると家臣達に中世で山ノ内氏が支配していた地が分与された。1594年(文禄3年)の高目録によると松山は木本左平次に分与された。また同史料によると当時の松山の石高は70石4斗2升で同時期に7人の家臣に分与された土地と比べて一番少ない[7]

近世において昭和村地域あたる野尻組は、1594年(文禄3年)の時点では松山を含む6ヵ村(他野尻・中津川・喰丸・小野川・大芦)のみで構成されていた。「会津風土記」によると1666年(寛文6年)になると上述した村に佐倉・原が加わり、中津川が下中津川・小中津川に分かれ計9ヵ村で構成されるようになった。尚、この時から端村が記載されるようになり、ここでは3つの端村が記録されている。1809年(文化6年)は村の数は9ヵ村と変わらなかったが、原村が両原村に代わり、端村が6ヵ村となっている。このように松山は野尻組(野尻郷)を当初より構成する村だった[8]。人口は1724年(享保9年)時点で家数32戸164人。約100年後に当たる1831年(天保2年)時点では29戸134人と減っている。前者は野尻組では佐倉村に次ぐ3番目に少ない人口で、後者に関しては同組内で一番少ない。人口が減った要因としては1783年(天明3年)の天明の飢饉が挙げられ、当地方においては特に松山のような水田の少ない山沿いの村々での被害が大きかったとされている[9]

当時、会津では年貢納入にあたり半石半永制と呼ばれる、年貢の半分を米、残りの半分を金で納める方法が採用されていた。これは米作地帯の会津盆地でも南山の山間部でも同じように取り入れられていた。しかし極めて水田が少ない山地においては、皆金納と呼ばれる年貢全てを金で納める制度が認められていて、野尻組では松山・大芦・小野川の3ヵ村で本田の皆金納が行われていた。松山などでは米を買って半石分納入するよりも、直接年貢を納めることができることから好まれてたとされる[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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