凡例松山重治
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕不明
死没不明
別名通称:新介、新太郎
主君本願寺氏→三好長慶→織田信長
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松山 重治(まつやま しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏、織田氏の家臣。 堺の出身であり、当初は本願寺の番士だったが、その後、松永久秀及び三好長慶に仕えた。弁舌は爽やかであり、更に小皷、尺八、早歌などの芸能も巧みで座興を盛り上げたため、「堺の名物男」としてもてはやされたと伝わる[1]。
略歴
三好家の没落後は織田信長に仕え、天正10年(1582年)1月の高野山攻めに参加している[5]。この時、伊都郡内に多和城を築いた[6]。その後の消息は不明。
脚注^ 『堺鑑』(仕官の項)
^ 『常山紀談』
^ 『太閤記』
^ 天野・152-153頁
^ 『紀伊続風土記』
^ 『二見文書』
出典
天野忠幸『三好長慶』(ミネルヴァ日本評伝選) 2014年 ISBN 978-4-623-07072-5
関連項目
常山紀談
菊池寛