松山町_(宮城県)
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まつやままち
松山町
酒ミュージアム


松山町旗松山町章

廃止日2006年3月31日
廃止理由新設合併
古川市志田郡松山町、三本木町鹿島台町玉造郡岩出山町鳴子町遠田郡田尻町
大崎市
現在の自治体大崎市
廃止時点のデータ
日本
地方東北地方
都道府県宮城県
志田郡
市町村コード04461-0
面積30.10 km2
総人口6,950人
推計人口、2006年3月1日)
隣接自治体古川市
志田郡鹿島台町三本木町
遠田郡美里町
黒川郡大郷町
町の木マツ
町の花コスモス
町の鳥カッコウ
松山町役場
所在地987-1395
宮城県志田郡松山町千石字広田30
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度30分51秒 東経141度03分35秒 / 北緯38.51425度 東経141.05975度 / 38.51425; 141.05975座標: 北緯38度30分51秒 東経141度03分35秒 / 北緯38.51425度 東経141.05975度 / 38.51425; 141.05975
松山町位置図
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松山町(まつやままち)は、平成18年(2006年)まで宮城県志田郡にあった

宮城県の北部に位置し、北東部に鳴瀬川が流れ、南部には高寺山を中心として東西に大松沢丘陵が連なっている。毎年10月に行われるコスモス祭り、地酒の一ノ蔵刀匠・法華三郎の鍛錬所などが有名で、キャッチフレーズは「花と歴史の香るまち」であった。仙台市への通勤率は14.7%、古川市への通勤率は14.0%(いずれも平成17年国勢調査)。
地理

山:高寺山


河川:鳴瀬川

歴史松山人車軌道(1920年代)

松山の名は、遠藤盛継が応永11年(1404年)に創建した万年寺の山号・嶺松山に由来するという。盛継は応永8年(1401年)に鎌倉公方足利満兼より志田・加美玉造三郡の奉行として派遣されてこの地に土着し、松山城(千石城)を築いて居城とした。戦国時代に入ると、伊達稙宗の急速な勢力拡大にともなって遠藤氏もその傘下に組み込まれた。松山一帯は、もとは長世保(ながせのほ)と呼ばれていたが、天文7年(1538年)に稙宗が作成させた『御段銭帳』には「松山庄」とあり、この頃には「長世」に替わり「松山」が地名として用いられるようになっていたことがうかがい知れる。天正19年(1591年)に遠藤氏が松山から登米郡石森に移された後は石川昭光・古田重直が領主を歴任し、慶長8年(1603年)に茂庭良綱が松山に入部。以後、幕末に至るまで茂庭氏がこの地を治めた。

明治22年(1889年4月1日 - 千石村・金谷村・須摩屋村・次橋村・長尾村の計5か村が合併して松山村が発足。当時の人口は5,188人。

明治23年(1890年3月15日 - 町制施行し、松山町となる。

昭和30年(1955年

3月30日 - 松山町と下伊場野村東部が合併し、新制の松山町が発足。

10月1日 - 三本木町の一部を編入(0.5平方q、311人)。


平成18年(2006年3月31日 - 三本木町・鹿島台町岩出山町鳴子町田尻町古川市と合併し、大崎市が発足。

行政

歴代村長

代氏名就任退任備考
1吉田辰之助明治22年(1889年)4月20日明治23年(1890年)3月14日


歴代町長

昭和の合併以前

代氏名就任退任備考
1吉田辰之助明治23年(1890年)3月15日明治29年(1896年)2月24日村長より留任
2上田治四郎明治30年(1897年)12月4日明治31年(1898年)8月25日
3畠中太仲明治31年(1898年)8月29日明治31年(1898年)11月


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