「高浜港」はこの項目へ転送されています。愛知県にある名鉄三河線の高浜港(たかはまみなと)駅については「高浜港駅」をご覧ください。
松山観光港ターミナルビル
松山港(まつやまこう)は、愛媛県松山市にある港湾。港湾管理者は愛媛県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。万葉集に歌われた「熟田津」(にぎたつ)は松山港のうちの古三津に当たるとも考えられており、古くから瀬戸内海交通の重要拠点とされてきた。松山観光港、高浜港、三津浜港、堀江港、松山外港、今出港を含む。それぞれの港についても当項で記載する。
現代においても長距離フェリーや国際コンテナ船などが多く寄港する主要港として発展を続けている。 松山市堀江町花見川
港湾区域
松山観光港ターミナル株式会社種類株式会社
本社所在地 日本
〒791-8081
愛媛県松山市高浜町5丁目2259-1
設立1998年(平成10年)4月23日
業種不動産業
法人番号5500001003723
松山観光港(まつやまかんこうこう)は、カーフェリーをはじめとした船舶の大型化に伴って高浜港(後述)が手狭になったために、高浜港の北に新たに設けられたもので、通称は観光港。当初は高浜新港と呼ばれた。現在の旅客ターミナルの建物は2000年(平成12年)10月7日にオープン[2] した二代目である。現在のターミナル建て替えにあたっては地方自治体(愛媛県・松山市)、地元交通企業および建て替え時点の就航会社(伊予鉄道・石崎汽船・瀬戸内海汽船・関西汽船・ダイヤモンドフェリー)および金融機関(伊予銀行・愛媛銀行・愛媛県信用農業協同組合連合会)が出資[3] した第三セクターの松山観光港ターミナル株式会社が1998年に設立され、建て替え工事完成後は同ターミナルの管理・運営を行っている。
伊予鉄道高浜線高浜駅より連絡バス約2分または徒歩約10分。松山市内直行の松山観光港リムジンバスもあるが、2024年3月現在、後述の通り一部を除いて運休中である。
イメージキャラクターとしてJINCO作の「まつやまかんこっこ」が採用されている。
石崎汽船・瀬戸内海汽船(共同運航)
スーパージェット・クルーズフェリー(呉港経由広島港(宇品)行き)
松山・小倉フェリー
松山 - 小倉航路(小倉港行き)
中島汽船
東線旅客フェリー航路(睦月港(睦月島)、野忽那港(野忽那島)経由大浦港(中島)行き[注 1])
ターミナルビルから見た岸壁。各航路の船舶が停泊している。
ターミナルビル内部(船客待合所)
高浜港開港式当日の高浜風景(1906年9月12日)港湾の様子(中島汽船のフェリーが出港中)
高浜港(たかはまこう)は、明治20年代に開かれた港である。
もともと松山港は、三津浜地区が藩政期からの港であったが、高浜が興居島を前面にした天然の良港であることから、1892年(明治25年)に伊予鉄道が高浜へ鉄道を伸ばした。ところが満足な港湾設備がなかったことから、さしたる利用はなく、1902年に宇品航路が開設された際も、三津浜港(後述)を寄港地としていた。伊予鉄道では同航路を誘致しようと、高浜港に桟橋を建設し同航路の寄港地を高浜へ変更させることに成功したが、もともと高浜への鉄道延伸自体を快く思っていなかった三津浜町(松山市への合併前)の反発を買った。
その後、1906年に兵員輸送の必要性から軍の要請によって待合所・倉庫等の港湾施設が整備されるなど高浜港の充実に古くからの港町であった三津浜町は激しく反発。当時の伊予鉄道社長・井上要は進歩党の代議士でもあったことから、政友会と進歩党との政界を巻き込んだ激しい争いとなり、三津浜派は1907年に伊予鉄道に対抗する形で松山電気軌道という新しい鉄道会社を設立。1911年の開業後、激しい客引き合戦を行った。松山電気軌道は運営に苦しみ、鉄道院の勧告もあって1921年(大正10年)に伊予鉄道が吸収合併している。
その後、瀬戸内海においてカーフェリーが普及してきたが、高浜港は中型以上のカーフェリーに対応できにくい桟橋の構造であり、柳井港との航路を有する三津浜港とは機能をすみわける形で共存してきた。さらに手狭になったこともあって、関西、九州、広島方面などほとんどの航路は北の松山観光港へ移り、現在、高浜港を利用するのは忽那諸島や興居島への旅客船・カーフェリーのみとなっている。
伊予鉄道高浜線の高浜駅が、道を隔てたすぐ近くにある。フェリー乗降口の隣に駐車場(有料)があり、切符売り場兼待合所の建物も隣接している。
中島汽船(中島方面) [注 2]
ごごしま(興居島方面)
三津浜港三津浜港フェリーターミナル古くから拓けた三津浜の内港
三津浜港(みつはまこう)は伊予鉄道高浜線三津駅より約1km、四国旅客鉄道(JR四国)予讃線三津浜駅より約2km。
室町時代に対岸に城を築いて(港山城)水軍の拠点とした河野氏の頃まで遡り、松山港のなかでは最も古くから開かれた地区である。夏目漱石が松山に赴任する際に降り立ったのはこの港であり、小説『坊つちやん』の舞台ともなっている。もちろん当時は港の設備といっても東屋風の待合所があるのみで満足な船着き場もなく、沖合いに停泊した船に岸から小船で乗り移っていた。
今日では柳井港へのカーフェリーのほか、中島方面へのカーフェリーの発着する港となっている。
港の中は入り組んでおり、奥部には小型船が多数停泊している。また、北岸に小型の造船所がある。
防予フェリー(旧:防予汽船)、周防大島松山フェリー(旧:岩国松山高速)(共同運航)