松尾邦之助
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松尾 邦之助(まつお くにのすけ、1899年明治32年)11月15日 - 1975年昭和50年)4月3日)は、日本の新聞記者評論家翻訳家

反権力・個人主義的志向を持つ人物であった。1940年のナチス・ドイツの占領まで長くパリに住み、日仏の文化交流に貢献した。
生涯

松尾嘉平・きみの次男として、静岡県引佐郡引佐町金指(現・浜松市北区引佐町金指)に生まれた。家は裕福な呉服商で、嘉平ときみの間には邦之助を含めて三男三女がいた。金崎の小学校、気賀(現・浜松市北区細江町気賀)の高等小学校を経て静岡県立浜松中学校(現・静岡県立浜松北高等学校)を了え、親の希望の旧制高等学校でなく、東京外国語学校フランス語文科に学び、1922年、逓信省の嘱託となり、その秋、嘉平の渋々の承諾を得て渡仏し、パリに住んだ。

1923年、パリ大学高等社会学院の卒業免状を取得した。家運が傾き送金が絶えたので、雑役に就いたのち、1925年、パリの日本人会の書記になった。1926年、中西顕政の出資で仏文の文化雑誌 ”Revue Franco-Nipponne(日仏評論)を創刊し、翌年からは自前の印刷所で製本した[注釈 1]。現地の先輩、藤田嗣治が協力した。金主の中西は三重県南牟婁郡木本町(現・熊野市大本町)の山持ちの富豪・中西源吉(木本木材商組合長)の息子で、 1913年より滞欧し、大金を持つ怪人として在仏邦人の間で知られていた[2][3][4][5]

1927年、スタイニルベル=オーベルラン(Emile Steinilber-Oberlin)との共著 "Les haikai de Kikakou"(其角の俳諧)を現地で出版し、また、岡本綺堂の『修善寺物語』の仏訳を、"LE MASQUE"の外題で上演した。小屋はコメディ・デ・シャンゼリゼ(Comedie des Champs-Elyses)、主演は、当時のオデオン座の座長フィルマン・ジェミエ(Firmin Gemier)だった。この頃から1940年まで、アンドレ・ジッドと付き合った。

1928年(29歳)、パリに来た辻潤と親交した。その夏、父の危篤で呼び戻され、没後の翌春、近在の村越ひろと結婚して、渋る家族親族を納得させ、帯同して再渡仏した。

1929年、パリに戻ってすぐ、日仏文化連絡協会を組織し、日本語の機関誌『日仏旬報』を発行したが、会費の徴収が滞り、長続きしなかった。1930年、辻潤の滞仏時の肩書「読売新聞パリ文芸特置員」を引き継ぎ、そしてパリ特派員になり、翌年パリ支局長になった。パリ旅行の林芙美子小林一三大倉喜八郎秦豊吉島崎藤村高浜虚子横光利一大辻司郎らに頼りにされ、「パリの文化人税関」と呼ばれた。

ロマン・ロランに依頼され、1932年、オーベルランと協力して倉田百三の『出家とその弟子』の仏訳を出版した。

1935年、支局長の仕事のかたわら、南満州鉄道欧州事務所長だった坂本直道の依頼を受け、坂本が松岡洋右の要請を受けて創刊したフランス語の日本紹介誌『日仏文化(FRANCE - JAPON )』の編集長に就任、1940年の終刊まで務めている[6][7]

1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻の直前、妻ひろが藤田嗣治・高野三三男らと帰国した。帰国後、長女春子が生まれた。

ドイツ軍占領下のパリに1年留まったのち、1941年、読売新聞の支局を閉じてベルリンへ移り帰国しようとしたが、独ソ開戦シベリア鉄道に乗れなくなった。1942年、イスタンブールへ特派され、翌年、マドリード支局長に転じ、東京の本社へナチス・ドイツの破局を報じた。

日本の敗戦後の1946年1月、引揚船で帰国し、読売新聞本社に勤め各地へ講演旅行した。間借りして、浜松の在にいた妻と長女と住んだ。読売争議の先が見えた7月、論説委員・副主筆となった。

1947年、日本ペンクラブの再建やユネスコ運動に参画した。1949年、友人らと辻潤の墓碑を建立した。

1957年、前田好子との間に邦夫が生まれた。その秋読売新聞を定年退職し、社友・嘱託となり、またパリ日本館の顧問になった。

フランス政府から、1958年にレジオン・ドヌール勲章を、1964年に芸術文化勲章を贈られた。同年大東文化大学教授となった。

1965年、前田好子と正式に結婚した。

1975年、肺炎により没した。
おもな著書
日本語の著書


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