松尾大社
本殿(右手奥、重要文化財)と中門・回廊
所在地京都府京都市西京区嵐山宮町3
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分59.87秒 東経135度41分6.62秒 / 北緯34.9999639度 東経135.6851722度 / 34.9999639; 135.6851722 (松尾大社)
松尾大社(まつのおたいしゃ/まつおたいしゃ)は、京都市西京区嵐山宮町にある神社。式内社(名神大社)で、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 京都盆地西部、四条通の西端に鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され[1]、西の王城鎮護社に位置づけられた。中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社である。 境内は、神体の松尾山の麓に位置する。本殿は室町時代の造営で、全国でも類例の少ない両流造であり国の重要文化財に指定されている。また多くの神像を有することでも知られ、男神像2躯・女神像1躯の計3躯が国の重要文化財に、ほか16躯が京都府指定有形文化財に指定されている。そのほか、神使を亀と鯉とすることでも知られている。 社名は、古くは『延喜式』神名帳に見えるように「松尾神社」と称された。現在に見る「松尾大社」と改称したのは、戦後の1950年(昭和25年)8月30日である[1]。 「松尾」の読みは、公式には「まつのお」であるが、一般には「まつお」とも称されている[1]。文献では『延喜式』金剛寺本、『枕草子』、『太平記』建武2年(1335年)正月16日合戦事条、『御湯殿上日記』明応8年(1499年)条等においていずれも「まつのお/まつのを」と訓が振られており[1][2]、「の」を入れるのが古くからの読みとされる[1]。 主祭神は次の2柱[1]。 『延喜式』神名帳において「松尾神社二座」と見えるように、松尾大社の祭神は古くから2柱とされた[1]。 祭神2柱のうち大山咋神(おおやまぐいのかみ)は、『古事記』(和銅5年(712年)成立)[原 1]や『先代旧事本紀』[原 2]において、大年神と天知迦流美豆比売(あめのかるみずひめ)の間の子であると記されるほか、大山咋神。亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山[注 1]に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用つ神ぞ。 ? 『古事記』大国主神段(原文漢文)[原 1][3] と記されており、比叡山の日吉大社(滋賀県大津市)の祭神と同じくする神である[4]。神名の字義は定かでないが、「くい(咋)」を「杭・杙」と見て、山頂にあって境をなす神であるともいわれる[4]。また、上記に見える「鳴鏑」に関連する伝承として、『本朝月令』所引の『秦氏本系帳』[原 3][注 2]では、初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を澣濯す。時に一矢あり。上より流下す。女子これを取りて還り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。(中略)戸上の矢は松尾大明神これなり。(中略)而して鴨氏人は秦氏の聟なり。 ? 『本朝月令』「4月中酉賀茂祭事」所引『秦氏本系帳』(原文漢文)[原 3][3] と見える[3]。このような神婚譚は、大神神社や賀茂別雷神社・賀茂御祖神社でも知られる[3]。
概要
社名
祭神
大山咋神(おおやまぐいのかみ)
中津島姫命(なかつしまひめのみこと) - 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の別名とする[1]。
大山咋神について 日吉大社(滋賀県大津市)大山咋神を祀る日吉大社東本宮。『古事記』によると、松尾・日吉には大山咋神が鎮座するという。
Size:145 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef