松尾一彦
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松尾 一彦
出生名松尾 一彦
生誕 (1954-08-07) 1954年8月7日(68歳)
出身地 日本 秋田県山本郡八森町
学歴秋田県立能代高等学校卒業
ジャンルJ-POP
職業シンガーソングライター
作曲家
プロデューサー
担当楽器
ギター
ハーモニカ
キーボード
活動期間1974年 -
レーベルファンハウス
1984年 ? 1989年
MOON RECORDS
1990年 ? 1991年
Still Life Records
2000年 ? )
事務所

上野カンパニー(1990年 (1990) - ?)

有限会社 松尾組(? - )

共同作業者ザ・ジャネット
オフコース
A.B.C清水仁大間ジロー
THE UNIT(森川由加里・土屋剛)
公式サイト ⇒www.gallery-untitled-matsuo.com

松尾 一彦(まつお かずひこ、本名同じ、1954年8月7日 - )は、日本シンガーソングライターオフコースの元メンバー(主にギターハーモニカキーボードボーカルコーラス担当)。身長165cm。血液型はA型。
来歴・人物

1954年8月7日、秋田県山本郡八森町(現:八峰町)生まれ。能代高校進学。

高校3年生の時に大間ジローと出会い、大間らとともにロックバンド“ドナルドダック”を結成、3月末に東京で行われたロック・コンテストに出場、わずかな練習期間でコンサート当日を迎えたものの、2位に入賞。プロダクションからの誘いはなかったものの、主催者だったキャロルの事務所を連絡先として活動を開始する。1973年夏、キャロルの事務所から独立したスタッフが設立したプロダクション“アーサー・プロモーション”と契約、バンド名を“ザ・ジャネット”と改名し、芸名を「松尾ジュン」とする。

ザ・ジャネットは日本テレビの勝ち抜きバンド合戦『ザ・チャレンジ』に出場。優勝しレコード・デビューが決まる。ディレクターは後にオフコースのプロデュースを手がける武藤敏史。1974年3月21日、シングル「美しい季節」でデビュー。以後シングルを4枚、アルバムを1枚リリースするが、商業的成功を収めることなく1975年12月解散。ジャネット解散後は武藤の紹介で東芝EMIの配送センターでアルバイトを始める。

オフコースの小田和正鈴木康博の二人と一緒に出来る人間を探していた武藤から、アルバム『SONG IS LOVE』のレコーディングに誘われる。そのままコンサート活動にも参加。1979年8月1日正式メンバーになる。また、オフコース在籍中から岩崎宏美「胸さわぎ」を手始めに作家活動も開始、稲垣潤一のデビュー曲「雨のリグレット」、柏原芳恵夏模様」など、多数の楽曲を歌手・アーティストに提供した(詳細は楽曲提供の項参照)。

オフコース解散後の1990年吉田拓郎のアルバム制作およびコンサート・ツアーに清水仁と共に参加。ツアーには1992年まで、レコーディングには1996年までそれぞれ参加。1992年ソロ活動再開。1994年、ボーカリスト福田康子とユニット“Everything She Wants”を結成、シングル2枚、アルバム1枚をリリース。同時期、斉藤和義のアルバムにてプロデュースを担当、編曲およびレコーディングのほか、ライブでのバッキングにも参加する。1997年コルツのレコーディングにアドバイザリープロデューサー、編曲で参加。コンサートツアーにも演奏で参加。

1999年3月、オフコースの元メンバー、清水、大間とともに“Acoustic Beatles Club(A.B.C)”を結成。オリジナル曲のほか、ビートルズのカヴァー曲を交えながら演奏活動を行う。

2004年11月、A.B.Cと並行して森川由加里・土屋剛とサウンド・ユニット“THE UNIT”を結成、ライブ活動のほか、シングルおよびアルバムをリリース。

2010年10月20日、ミニ・アルバム『せつなくて』をリリース。小田にとってオフコース解散後初の、元メンバーとのコラボレーションとしてピアノ&ピアノ・アレンジでタイトル曲に参加。また、カップリング曲の「哀しき街」には清水がコーラスで参加。

2011年1月、鈴木のラジオ番組「メインストリートをつっ走れ!」にゲスト出演。全盛期の元メンバー全員とのコラボレーション・共演をオフコース解散以降、最初に果たした(過去にA.B.Cと鈴木のコラボレーションはあったが、鈴木の出演は松尾の急病によるもの。松尾は共演していなかった)。

2015年3月18日、オフコースからソロまでのライブ映像、新作ミュージックビデオの他、オフコースメンバー全員のインタビューも収録したDVD『“I'll see you when I see you” Kazuhiko Matsuo Choronicle』発売。
エピソード

弟の松尾直樹は、
斉藤和義をデビューさせ、初期のアルバムをプロデュースした人物である。兄である松尾が斉藤の初期の楽曲に関わった経緯は、斉藤と同じく同じギタリスト経験があり、ビートルズを愛好するアレンジャーを弟が探していたことによる。[1][2]

チューリップ宮城伸一郎とんぼちゃんの伊藤豊昇と市川善光は能代高校の1年後輩。

長嶋茂雄の大ファンで、活字の本は苦手だが長嶋に関係する本だけは読破したという。物真似も得意で、オフコースのステージでも一時期披露していた。

公式HP内のBBSにて本人が明かしたところによれば(2010/01/09(Sat) 18:10)、従姉妹の夫の先祖はジョン万次郎だという。

公式発表上では高卒となっているが、実際は大学中退である。中学の頃から音楽の道へ進むことを考えていたものの家族の説得で高校へ進学した。卒業後はもっと自由に音楽だけをするため、その口実として大学へ行きたいと申し出る。結果、大学へ合格、上京が決まった。しかし父の転勤で家族揃って上京することになり、当初の目論見は外れてしまった。一年生の時は家族の説得で嫌々通っていたものの、二年生になるとコンテストへの出場などでほとんど出席しなくなり、そのまま退学となった。

ザ・ジャネット時代、田辺エージェンシーに所属していたことがあった。

オフコース時代、小田和正が海で溺れかけたことがある。メンバーで海に行った時、溺れかけた小田が松尾の乗っているボートの真横を掴んだため、溺れていることを知らず「ここじゃ邪魔だから、漕いで引っ張っていくから船の後ろに捕まってほしい」と言うと、小田は何故か手を放して泳ぎだしたという。そのうち小田の姿が見当たらなくなり、沖の方で頭が浮いたり沈んだりしているところを清水が発見して救出した。この話は、後日の宮崎でのライブMCや後年のラジオ番組で何度かネタとして取り上げられている。松尾曰く、「泳げない人は足立たないところに来ないっていう風に思っていたし、ちょっと疲れたぐらいだったと思った」。吉田拓郎に至っては、解散翌年のラジオ特番「元気です」で松尾をゲストに迎えたコーナーで、「そん時でしょ、解散だなと思ったのは」とジョークを交えてコメントしている。

音楽作品「オフコース」も参照
シングル
普通のオフィスレディ(1986年
7月2日

There's No Shoulder(2007年)?『Breath』収録曲の再リリース

星くず(2009年4月11日)? 2008年8月2日 Club Ikspiariでのライブ音源3曲を収録

アルバム
Wrapped Woman1986年7月23日

Breath (1990年9月25日) ミニ・アルバム

Being There1991年4月25日) ベスト・アルバム


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