松室致
生年月日 (1852-01-22) 1852年1月22日
出生地 日本豊前国企救郡松ヶ江村大字畑[1]
没年月日 (1931-02-16) 1931年2月16日(79歳没)
死没地 日本東京府東京市麹町区
出身校司法省法学校
第17・21代 司法大臣
内閣第3次桂内閣寺内内閣
在任期間1912年12月21日 - 1913年2月20日1916年10月9日 - 1918年9月29日
第7代 検事総長
在任期間1906年7月12日 - 1912年12月21日
枢密顧問官
在任期間1924年4月5日 - 1931年2月16日
貴族院議員
在任期間1918年9月21日[2] - 1924年4月10日
テンプレートを表示
松室 致(まつむろ いたす、嘉永5年1月2日(1852年1月22日) - 昭和6年(1931年)2月16日)は、日本の司法官僚、政治家、教育者。位階勲等は正二位勲一等旭日桐花大綬章。検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、枢密顧問官を歴任した。法政大学学長(1913年 - 1931年)。 小倉藩士松室晨吾
生涯
司法省法学校に入学し、1884年に法律学士の学位を得る(同期には梅謙次郎がいた)。判事・検事の経歴を積み1906年に検事総長に就任。検事総長在任中には、日糖疑獄から発覚した内外石油疑獄
では、東京地方裁判所検事局検事正 小林芳郎らの抵抗も空しく、桂太郎総理の鶴の一声で、松室致検事総長、平沼騏一郎司法省刑事局長以下、本件捜査を見合わせることで終幕した。さらに、幸徳事件の捜査を指揮した。1912年に第3次桂内閣で司法大臣となり、後任の検事総長となった平沼騏一郎と共に、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立。229人の判事・検事を一挙に休・退職とし443人にのぼる異動を発令、司法界の粛清を行った。
1910年に法政大学総理の梅が急逝すると後任人事をめぐって混乱が起こるが[3]、1913年に推されて学長に就任[4]。専門学校令によって設立されていた大学を大学令に準拠した大学へ転換させることに奔走すると共に、教授陣の充実を図る。殊に文学部・予科については野上豊一郎に、経済学部については高木友三郎に、それぞれ一任してリベラル色の濃い特色を形作ることになった。
その後寺内内閣でも司法相を務めた後、貴族院議員・枢密顧問官を歴任。田中義一内閣で治安維持法に死刑・無期懲役が追加されようとした時には、かつての部下だった平沼やその系統に連なる原嘉道が改正推進に動く一方、枢密院で強硬に反対した。
1931年2月16日に枢密院での会議中に脳溢血で[5][6]死去するまで、法政大学の学長を18年間務め、松室が北軽井沢の広大な土地を大学関係者に分譲して1928年に開いた「法政大学村」は、後に「北軽井沢大学村」となって今に受け継がれている[7]。
栄典
位階
1886年(明治19年)12月27日 - 従七位[8]
1892年(明治25年)2月27日 - 正七位 [8]