松坂屋上野店
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}J.フロント リテイリング > 大丸松坂屋百貨店 > 松坂屋 > 松坂屋上野店

松坂屋上野店

上野広小路交差点より。2023年1月撮影。
地図

店舗概要
所在地110-8503
東京都台東区上野3丁目29番5号
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分27秒 東経139度46分24秒 / 北緯35.70750度 東経139.77333度 / 35.70750; 139.77333 (松坂屋上野店)座標: 北緯35度42分27秒 東経139度46分24秒 / 北緯35.70750度 東経139.77333度 / 35.70750; 139.77333 (松坂屋上野店)
営業時間10時?19時(一部フロアは、これと異なる)
最寄駅上野広小路駅上野御徒町駅御徒町駅ほか
外部リンク ⇒http://www.matsuzakaya.co.jp/ueno/
Matsuzakaya
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松坂屋上野店(まつざかや うえのてん)は、東京都台東区上野に所在する、大丸松坂屋百貨店J.フロント リテイリング)が運営する百貨店。上野松坂屋とも称する。銀座[注釈 1]が百貨店としての営業を終了した2013年以降は、関東地方にある唯一の松坂屋の店舗である。
歴史

歌川広重の『名所江戸百景』13番、『下谷広小路』に描かれた「いとう松坂屋」。

1917年に竣工した新本館。

関東大震災後に建替えられた本館。1929年。

2007年3月のリニューアルを告知するラッピングバス。

南館跡に2017年に開業した、上野フロンティアタワー。松坂屋は地下1階に入る。

前史

上野広小路の呉服商「松坂屋」は、伊勢国白子出身の太田利兵衛により宝永年間に創業したが、詳細な時期には複数の説がある。『松坂屋呉服店御案内』には1705年(宝永2年)、『鶴齢記[注釈 2]』によると宝永3?4年、『松の齢[注釈 3]』には宝永4年と記されている。上野広小路は1657年の明暦の大火の後に火除地として設けられ、見世物小屋や茶屋などが並ぶ繁華街となっていた。太田家三代の興輝のときに経営不振に陥る[3]名古屋のいとう呉服店のもとに、多摩の拝島にある取引先の臼井八郎兵衛を通じて、松坂屋が買主を探しているとの話が舞い込んだ。伊藤家11代の祐恵は買収を決め、1768年3月末に江戸に向かった。二代目太田利兵衛との間に4月9日に覚書、12日には譲渡契約書に当たる「譲証文之事」を交わし、4516で従業員を含めた居抜きで譲り受けた。契約に先立ち、4月5日より営業を開始している。このとき、屋号を松坂屋から「いとう松坂屋」に改めた[4]。祐恵は、好調であった名古屋のいとう呉服店の手法で商いを進めたが、順調にはいかなかった。「正札現金掛け値なし」を原則としたが、古くからの馴染み客には掛け売りを行っていた。その残額が少額であっても厳しく取り立てたことが不評を呈する。商品価格も、江戸の競合店に比べて高価であった。二代目太田利兵衛、臼井八郎兵衛、玉上利右衛門[注釈 4]は祐恵に対し連名で、「販売価格を下げて販路を広げるなど、“郷に入っては郷に従う”商いをしてはどうか」と助言の書状を送った。伊藤家は江戸の上野に進出するにあたり、寛永寺門前町である地の利を考え、名古屋から法衣商を同伴したが、当時の寛永寺は延暦寺とのつながりが強く、衣類はすべて京都に発注していたため受注には至らなかった。商いを江戸流に改め、寛永寺への営業努力も実を結び同寺や浅草寺をはじめ七十数寺、千数百人の衣料の受注を取り付け、次第に商売が軌道に乗った[6]。1787年(天明7年)に起きた天明の打ちこわしでは松坂屋も襲撃の対象になったが、支配人の機転により被害は軽微に済んだ[7]

1805年(文化2年)、大伝馬町の木綿問屋仲間と本町・通町の白子組木綿問屋仲間の訴えにより、町奉行所は問屋株のないものが直に産地から仕入れることを禁じる裁定を下す。伊藤家12代の祐躬は、大伝馬町の木綿問屋仲間に加わることを決め、大伝馬町一丁目[注釈 5]に木綿・繰綿問屋「伊藤屋」を開業。上野店が縁起を担ぎ「鶴店(つるだな)」と呼ばれていたのに対し、大伝馬町の店は鶴店の支店の形態をとり「亀店(かめだな)」と呼んだ[8]
火事と喧嘩は江戸の華

火事と喧嘩は江戸の華」とよく言われるが、松坂屋もたびたび火災に見舞われた。いとう松坂屋となった4年後の1772年2月には明和の大火[注釈 6]で類焼。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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