松坂城
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logo松坂城
三重県
本丸上段
別名松阪城
城郭構造梯郭式平山城
天守構造連結式3重5階(1588年築・非現存)
築城主蒲生氏郷
築城年1588年天正16年)
主な改修者古田重勝
主な城主蒲生氏郷服部一忠古田重勝
廃城年1871年明治4年)
遺構天守台、本丸、二の丸、石垣等多数残る
指定文化財国指定史跡
再建造物石垣修復
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度34分33.2秒 東経136度31分32.6秒 / 北緯34.575889度 東経136.525722度 / 34.575889; 136.525722座標: 北緯34度34分33.2秒 東経136度31分32.6秒 / 北緯34.575889度 東経136.525722度 / 34.575889; 136.525722
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松坂城

松坂城(まつさかじょう)は、三重県松阪市殿町にあった日本の城。現在は松阪城とも表記される[1]。城跡は松坂城跡(まつさかじょうあと)として国の史跡に指定されている[2]伊勢国松坂古城絵図
概要

城の縄張りは梯郭式平山城である[3]。松阪市の中心地の北部に位置する。阪内川が城北を流れ天然の堀となっている[3]江戸時代初期には松坂藩の居城となっていたが、廃藩後は御三家紀州藩の南伊勢国内17万9千石を統括するために城代が置かれた[3]

城内の建築物は1877年明治10年)の失火と1881年(明治14年)までの破却によって失われ[4]、現地には石垣のみが残っており、城址公園となっている[3]。(公園名は「松阪公園」[5]。)周囲には松阪市役所、市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある[3]。松阪は梶井基次郎の短編小説『城のある町にて』の舞台であるため、二の丸跡に文学碑が建てられている[3]。この文学碑は1974年昭和49年)8月に建立された[6]

三の丸跡地は明治以降に開発され、三重県立松阪工業高等学校松阪市立殿町中学校松阪市民病院などになっている[7]

催事として、毎年4月上旬に「宣長まつり」、11月3日に「氏郷まつり」が開かれる[8]。松阪市によると徳川陣屋、御城番屋敷、高麗門、土塀、藤棚、能楽堂の木造復元計画もあるが予算の関係で進んでいない。又、松阪市は予算の関係で天守、大手門の木造復元計画は行わず現在残された物を有効に活用する方針である。
歴史

松坂城の築城前より、伊勢国司北畠家武将・潮田長助が四五百森城を当地に築城していた[4]。さらにさかのぼると、縄文土器が出土していることから、縄文時代後期には人々が居住していたものとみられる[9]。ただし城跡から多く出土するのは弥生土器である[9]

1584年天正12年) - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ飯高郡松ヶ島城に入城した[2]

1588年(天正16年) - 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重5階の天守が構えられた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。

1590年(天正18年) - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。代わって服部一忠が入城した。

1595年文禄4年) - 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したと豊臣秀吉より叱責され自害した。次いで古田重勝が3万4千石で入城した。

1600年慶長5年) - 関ヶ原の戦いの軍功により徳川家康より2万石を加増された。重勝はこの年に死去し長子の重恒が幼少のため重勝の弟・重治が襲封した。

1619年元和5年) - 古田氏は石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となった。松坂城は当地を統括する城として城代が置かれた。城内の天守以下の櫓や門等の建物は放置されていたため、江戸時代前期の史料によれば、1644年(正保元年)に天守が台風のため倒壊したとされ、以後は天守台のみが残ることとなった。1794年(寛政6年)には二の丸に紀州藩陣屋が建てられた。以後、紀州藩領として明治維新を迎えた。

1871年明治4年) - 廃藩置県により廃城となった。

1877年(明治10年) - 失火により二の丸御殿を焼亡した。

1881年(明治14年) - この頃までに、他の建造物も概ね破却された。現在は殿町御城番屋敷に米倉のみが現存している。

1889年(明治22年) - 町村制施行時に地名が「松坂」から「松阪」に変更される[1]

2006年平成18年)4月6日 - 日本100名城(48番)に選定された。

2011年(平成23年)2月7日 - 約4.7haの城跡が「近世の政治・軍事を知る上で貴重」であるとして、松坂城跡として国の史跡に指定された[2]

石垣松坂城石垣

建築史家の内藤昌は「素晴らしい石垣安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」と述べ、近世の先駆けとなる名城に挙げている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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