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松原 正樹
(まつばら まさき)
生誕 (1954-06-27) 1954年6月27日
出身地 日本 福井県越前市(旧武生市)
死没 (2016-02-08) 2016年2月8日(61歳没)
ジャンルJ-POP
フュージョン
職業ミュージシャン
作曲家
編曲家
担当楽器ギター
共同作業者PARACHUTE
公式サイト ⇒松原正樹 ウェブサイト
松原 正樹(まつばら まさき、1954年6月27日 - 2016年2月8日)は、日本のギタリスト、作曲家、アレンジャー[1]。福井県越前市(旧武生市)出身[2][3]。ヤマハ・ネム音楽院(現・ヤマハ音楽院)出身。妻はキーボーディストで作曲家の南部昌江[1]。 1970年代後半よりスタジオミュージシャンとして活躍[3]。そのセッション活動の幅は広く、松任谷由実、松山千春、さだまさし、辛島美登里、徳永英明、岡村孝子、永井真理子などのシンガーソングライターから、松田聖子、中森明菜、小泉今日子、光GENJI等のアイドルまで、ほとんどのジャンルの日本の主要アーティストに関わっていた[2][3]。レコーディングに参加した楽曲は優に1万曲を超え、キャンディーズの「微笑がえし」、松田聖子の「時間の国のアリス」、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」、松山千春の「長い夜」などの楽曲が1970 - 80年代の音楽ランキング番組を賑わせていた[1][2][3]。 個人としても1978年にソロアルバム『流宇夢サンド』を発表以後、21枚のソロ作品をリリース[3][4]。生演奏を大切にした“HUMARHYTHM”シリーズが好評を博した[4]。ソロ活動の他にも、1980年から「PARACHUTE」「AKA-GUY」「TRIFORCE」「ON-DO」などのバンドやユニットを結成して活動した[1][3]。 プロレスラーの小橋建太が若手時代に松原の『Sniper』を入場テーマ曲として使用していたことがあり、松原の死去に際して自身のブログで追悼のコメントを寄せている[5]。 生家は祖父が始めたダンスフロアーを持つバー(スナック香)を営んでいた[3]。店は父の代まで続き、幼少の頃から父と母が踊る姿と様々な音楽に触れて育ち、自然と音楽への興味が沸く[3]。 武生市立第三中学校に入学。ブラスバンド部に入る[2]。サックスをやりたかったがトロンボーンをやらされる事になり、これに夢中になることで音楽的素養が磨かれた[3]。 中学2年の夏、実家の店で働いていた元グループサウンズのヒッピー青年が弾くギターに憧れ、彼に教えてもらうようになる[3]。中三の時には既に、福井市内のダンスホールなどで職業ミュージシャンと共にステージ経験を積んでいる。 福井県立武生高等学校に進学し、バンド活動にのめり込む[2]。プロを目指して高校卒業とともに三重県にあったネム音楽院(現・ヤマハ音楽院)に入学する。同学院ではプロミュージシャンの演奏を間近で聞くことができた。大村憲司や村上ポンタを知り、上田正樹にスカウトされるが、大阪ではなく東京に憧れた。講師の助言もあり入学から半年後には上京して米軍キャンプなどで演奏を始める[3][4]。米軍三沢基地の年越しパーティに参加して新年を迎えるなど、地方の米軍キャンプへも演奏に行くが、収入的に苦しくなり、蒲田のパブでいわゆる箱バンとして演奏を始める。しかしやはり厳しく脱退者も出て、松原もこれを辞める。高校卒業からここまで1年余のことである。同冬には勝新太郎主演の映画「御用牙」の劇伴の録音に参加する。20歳の頃にはヤマハ音楽院の縁で、複数のプロミュージシャンのバックバンドに加わって生計を立てている。 1974年、ヤマハ音楽院の縁で、ハイ・ファイ・セットのバックバンドに参加[1]。重田真人・宮下恵補・新川博と「ガルボジン」結成。ガルボジンの命名はハイ・ファイ・セットのプロデューサー松任谷正隆の妻、松任谷由実。 1978年、上田正樹のPush & Pullに加わり活動。当時の歌番組は生演奏だったため、彼のギタープレイを聞いたレコード会社などからレコーディングに呼ばれるようになり、スタジオミュージシャンとしての活動を始める[1][3]。同年、初のソロアルバム『流宇夢サンド』をリリース[2]。
人物
来歴