松原客館
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松原客館(まつばらきゃっかん)は、平安時代前期の9世紀頃に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるために越前国に設置されたと考えられる迎賓・宿泊施設。現在の福井県敦賀市気比の松原近辺にあったのではないかといわれているが、考古学的な裏付けはなく、所在地は明らかでない。
概要

渤海は現在の中華人民共和国東北部付近にあった国家で、698年に成立し、926年に滅亡した。渤海から日本へ派遣された渤海使は、727年から919年のおよそ200年間で34回あり、日本から渤海へ派遣された遣渤海使は13回の記録が残る[1]。渤海使は、おもに冬の北西季節風を利用し[1]山陰北陸東北(時には北海道[2])に来着し、南風が吹く5月から6月に帰港することが多かった[3]。また、北陸・出羽国に来着した渤海使は、敦賀を経由して都へ入り[4]、帰港時には敦賀を出て、能登国の福良(能登客院の比定地の一つ)を経由して帰るルートをとった[3]。なお、渤海使の目的は、当初は軍事同盟的な色彩が濃いものであったが徐々に交易中心へと変わり、来着回数も1年?3年毎という時期も見られ、回数が非常に多くなっていった。また、使節団の人員も、当初は20名程度であったものが、823年弘仁14年)以降は100名を超える規模となった[1]

松原客館(駅館)の名称がはっきりとみえる史料は次の2つである[5][6]

延喜式』(905年 - 927年に編纂)の雑式に「凡そ越前国松原客館は気比神宮司をして検校せしむ」と記載されており、時期は不明ながら気比神宮の宮司が客館の管理を任されていたことが分かる。

扶桑略記』には、919年敦賀半島の丹生浦に渤海使が来着した際の記録が残る。この最終34回目の渤海使105名は、定め通りに松原駅館に移送されたものの、館の門は閉ざされ、無人状態であり、の蓄えもなく、非常に不備な状態であったとある。

松原客館の設立を直接明記した史料は見当たらないが、以下のように関連を示唆しているととらえられる史料もある。

続日本紀』には、766年天平神護2年)2月20日に、近江国から「松原倉」へ稲穀5万が貯倉されたとの記録がある。この「松原倉」を敦賀の松原と解釈し、港の維持管理などの財源とするための官営の倉があり、その後の客館の設立にもつながっているのでないかとの説がある[4]。一方で、この「松原倉」には越前国との記載はなく、松原客館とは無関係で平城京の松林宮の倉とする説もある[5]

日本後紀』には、804年延暦23年)6月に「能登国への渤海使の来着が多くなっており、停宿のところは疎漏なきよう、早く客院を造るように」との記載が見える。このときに能登だけでなく松原客館も設置されたのではないか、と考える向きもある[4]

松原客館と古代官道の松原駅との関係性については、おもに2つの説がある。

松原客館と松原駅は別々の場所とする。ただし「松原」の名を冠し、松原「駅館」とも称することから、地理的には近い場所にあったとする[6]

松原客館と松原駅は同じところにあり、松原駅家内の建物が客館として利用されたのではないかとする[2]

年表

698年 - 渤海が成立する。

727年(
神亀4年) - 第1回目の渤海使、渤海国との国交樹立。

766年(天平神護2年) - 近江国から「松原倉」へ稲穀5万斛を貯倉される。

776年(宝亀7年) - 気比神宮に宮司を置く。

804年(延暦23年) - 能登国に客院設置の指示が出される。

919年(延喜19年) - 最終34回目の渤海使105名を「松原駅館」に移送。

926年 - 渤海が滅亡する。

930年(延長7年) - 東丹国(渤海の故地に成立した国)の使節が丹後国に来着。

渤海滅亡後も、以下のようにの商人や官人が敦賀を来訪した記録があり、迎賓・宿泊施設として客館が機能していたとの説もある[5][7]

995年長徳元年) - 宋の商人朱仁聡らを定め通り越前国へ移した。

1060年康平3年) - 宋の商人が敦賀津に来着。

1080年承暦4年) - 宋の商人が敦賀津に来着。

1091年寛治5年) - 加賀守藤原為房が敦賀の「官舎」に宿泊。

所在地をめぐる諸説

松原客館の所在地については考古学上の決定的な物的証拠が見つかっておらず、伝承や歴史地理学的な見地から、以下のようにいくつかの説が提示されている[7][8]


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