松前重義
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日本政治家松前 重義まつまえ しげよし
逓信省工務局長時代
生年月日1901年10月24日
出生地 日本 熊本県上益城郡嘉島町(旧・大島村)
没年月日 (1991-08-25) 1991年8月25日(89歳没)
出身校熊本高等工業学校
東北帝国大学
前職逓信省官僚(工務局長)・逓信院総裁
国際柔道連盟会長
東海大学創立者・理事長・総長
日本対外文化協会会長
所属政党日本社会党右派
称号正三位
勲一等旭日大綬章(1982年昇叙)
勲一等瑞宝章(1971年)
工学博士東北帝国大学
子女長男・松前達郎(元参議院議員)
次男・松前紀男(元東海大学学長)
三男・松前仰(元衆議院議員)
衆議院議員
選挙区旧熊本1区
当選回数6回
在任期間1952年10月1日 - 1963年10月23日
1967年1月29日 - 1969年12月2日
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松前 重義(まつまえ しげよし、1901年明治34年)10月24日 - 1991年平成3年)8月25日)は、日本逓信官僚政治家工学者教育者。学位は工学博士東北帝国大学・1937年)。熊本県出身。東海大学創立者。内村鑑三を師とするクリスチャン[1]

戦前は逓信官僚として新体制運動に加わり大政翼賛会総務部長、戦後は逓信院総裁(逓信大臣郵政大臣相当)、社会党右派衆議院議員を務め、ソ連との友好親善に尽力した。静岡市名誉市民[2]
来歴・人物

熊本県上益城郡嘉島町生まれ。合併前の大島村村長を務めた松前集義が父である。祖父松前熊太郎、曾祖父松前叶は熊本藩士。小学5年生のとき熊本市に移った際、故郷の農村と違って夕方になると町中に一斉に電灯がともるのを見て美しさに驚き、これがのちに電気を専攻するきっかけとなった[3]

旧制熊本県立熊本中学校から熊本高等工業学校を経て、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業する。抜山平一に師事した[3]

逓信省技官として入省し、無装荷ケーブルなどを発明して通信技術の進歩に貢献した。1937年昭和12年)11月に『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』[4]で東北帝国大学より工学博士の学位を授かる。

当時は社会の指導者として法学部出身者を最優先する風潮があり、技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造にあたり、新体制運動へ傾倒するが[5]キリスト教思想家である内村鑑三が主宰する聖書研究会や講演会などに通い、人生を決める感銘を受け、教育への志を立てることとなった[1]。この内村鑑三の聖書研究会をきっかけに、濱田成徳という知友も得た[6]

妻や篠原登ら友人たちと教育研究会を開いた松前は、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させたデンマークの精神的支柱だったニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィを知り、松前が提唱するフォルケホイスコーレ(国民高等学校、国民大学とも訳す)を視察に1934年、デンマークを訪問し帰国後、無装荷ケーブル通信方式の発明で電気学会から受け取った「浅野博士奨学祝金」を基金の一部にして1936年に東京・武蔵野にキリスト教主義学校として望星学塾を開設、フォルケホイスコーレを範にした教育を始める[7]。学生が8人ぐらい寝泊りできる寄宿舎と体育館兼講堂兼図書館が完成し、日曜ごとにキリスト教の礼拝を行い、週2回はデンマーク体操、月に1度は必ず公開講演会を開いた。旧制一高で教える三谷隆正が近くに居住していたことからたびたび講師を務めた。少数ではあったが熱心な青年が集まり、この集会から東海大学学長の篠原登電電公社総裁の米沢滋日本電気社長の小林宏治を始め、教育界、財界で活躍した人材を輩出した[8]。その後、戦争により活動停止となったが[9]、この聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う塾が今日の学校法人東海大学の母体となった[1]

1940年(昭和15年)に大政翼賛会が発足すると総務局総務部長に就任するが、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年(昭和16年)に逓信省工務局長に就任する。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)に航空科学専門学校を、1944年(昭和19年)に電波科学専門学校[10]をそれぞれ創立する。

日米開戦後に日本の生産力アメリカ合衆国に遠く及ばない現実を知り[11]それを各方面へ報告したことから、勅任官であるが二等兵として召集されて1944年(昭和19年)に南方戦線へ送られた[12][13][14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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