松前藩
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松前藩(まつまえはん)は、松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いたである。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町館城に移し、明治期には館藩と称した。家格外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。

江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった[1]。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。
藩史
17世紀まで松前勘解由と従者像。元の写真(1854年、ペリーの箱館来航時に撮影)は日本最古の銀板写真の一つで重要文化財。

松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代武田信広甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。信広は安東政季から上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたという。蠣崎季広の時には、主家安東舜季の主導のもと東地のチコモタイン及び西地のハシタインのアイヌと和睦し(夷狄の商舶往還の法度[2]、蝦夷地支配の基礎を固めた。

戦国末期には、津軽地方での大浦為信の挙兵により、蝦夷管領(檜山安東氏)が津軽から駆逐され[注釈 1]、蝦夷地での蠣崎氏の独立が加速する。季広の子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏(のち秋田氏)の支配から公式に離れる事が承認され、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名となった。

当時の蝦夷地では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。藩はサケ昆布ニシン毛皮などの交易品によって収入を得たが、利益は7万石に相当したという[3]。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。延宝7年(1679年) 松前藩は樺太久春古丹大泊郡大泊町楠渓)に穴陣屋を置き、漁場としての開拓を始めた。松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は天保4年(1834年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄した。

藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。
檜山奉行と林業


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