松前城
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この項目では、渡島国の松前城について説明しています。伊予国の松前城については「松前城_(伊予国)」をご覧ください。

logo松前城
北海道
松前城外観復元天守
別名福山城
城郭構造平山城
天守構造独立式層塔型3重3階(1855年安政元年)築 非現存)
1960年RC造外観復元)
築城主松前崇広
築城年安政元年(1855年)
主な城主松前氏
廃城年1874年
遺構本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁

指定文化財国の重要文化財(本丸御門)
国の史跡
北海道有形文化財(御殿玄関)
再建造物天守
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度25分49.17秒 東経140度6分30.96秒 / 北緯41.4303250度 東経140.1086000度 / 41.4303250; 140.1086000
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松前城(まつまえじょう)は、西蝦夷地渡島国津軽郡、のち福島郡の一部を編入で松前郡[1])福山(現・北海道松前町松城)にあった日本の城平山城)。江戸時代、公式には福山城(ふくやまじょう)と記されたが、当時から備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた[2]
概略

江戸時代末期に海防強化のため松前藩江戸幕府に命じられ、居城であった福山館を拡張する形で築城し、1855年安政元年)に完成した。石田城と並び日本における最後期[3]、かつ、北海道内で唯一つの日本式城郭である[4]

箱館戦争では、明治元年11月5日(1868年12月18日)に土方歳三が率いる旧幕府軍に攻め落とされたが、翌年、新政府軍が奪回した。明治維新後、天守などを除く城の大半が取り壊されたが、天守は国宝保存法に基づく国宝に指定された。しかし1949年昭和24年)6月5日に類焼により焼失[5]。そのため、創建当時から現存する建築物は切妻造本丸御門[6][4]と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)[7][8]および旧寺町御門(現在の阿吽寺山門)[9]のみである。今も残る曲輪・石垣などを含めた城跡が国の史跡に指定されている[10][11]

現在は松前城とその周辺の寺町や観光施設の松前藩屋敷[12][13]を含む広いエリアが松前公園として整備されている。公園にはマツマエハヤザキベニユタカなど松前町発祥の貴重な松前系品種を含む250種1万本の桜が植えられていて日本さくら名所100選に選定されており、2か月にわたり花見ができる全国屈指の桜の名所となっている[14][15]。また老朽化した天守、天守土塀の木造復元計画もある。
歴史
福山館

前身の福山館は、松前慶広の代に、松前氏が居城としていた大館(徳山館)より福山へ移城した際、1600年慶長5年)から1606年(慶長11年)にかけて建設された[16]。福山館は堀や石垣があり、本丸のほか二ノ丸、北ノ丸、櫓が築かれていたが、松前氏が無城待遇だったことから、正式に城とは呼ばれなかった[17]
築城

画像外部リンク
松前城の図面(松前福山城図) - 函館市中央図書館デジタル資料館

江戸幕府は異国船到来の増加を受けた海防強化のため、松前藩主となったばかりの松前崇広1849年嘉永2年)7月10日、新たに築城を命じた[18]

築城の縄張りは、日本三大兵学者と呼ばれた長沼流市川一学に依頼された。一学は高崎藩松平輝聴の家臣であったが、松前藩は礼を尽くして協力を得ることとなった。一学は息子の市川十郎とともに松前に渡り、藩内を調査し、箱館の北にある庄司山から大川付近が最適地であるとして意見具申した。しかし藩側は、松前が交易の中心かつ父祖伝来の土地であること、なにより新規築城移転に要する多額の費用を捻出することは難しいため、現在の福山館を拡大し、海岸には砲台を設置すべきとした。市川十郎は箱館移転と福山館拡張の二案を幕府に提出し、幕府の採決により福山館拡張で決定した[19]

松前広当が総奉行に、配下として新井田備寿、蠣崎広明、下国定季らが任じられ、1850年(嘉永3年)7月以降に福山館の撤去と縄張りを開始。石材には城北東部から採れる緑色凝灰岩を中心に、重要部分には兵庫の本御影石などが用いられた[20]。総工事費は約15万両と概算されるが、築城の最大の課題は費用捻出であり、これに苦心した藩は沖ノ口口銭の引き上げや家臣俸禄の一割献上、御用商人からの献金、町民からの献金や労働力提供が行われた[21]。特に御用商人の中には櫓一基分もの巨費を献金した者もいた。1852年(嘉永5年)8月に築城総奉行の松前広当が死去したため、下国崇教が総奉行となった。

1855年(安政元年)9月末に工事は完成し、10月24日に幕府目付堀利煕による検分が行われ[22]、松前福山城と呼ばれることとなった。同月末には町人や商人、領内各村のそれぞれ有力者や多額の献金者が集められ、完成の祝宴が行われた。

城は本丸から三の丸まで総面積21,074坪で、三重櫓、二重櫓、太鼓櫓が建てられた[23]。城の強化のため、外郭石垣の輪郭を大きくし、さらに内側に二重の石垣を設置。建物の壁も、その外側に落とし板が付けられた[24]。主御殿や一部の施設は、旧来の松前館のものをそのまま流用した。また、旧式城郭としては異例の砲台が三の丸に7つ置かれた。城のほかにも、1851年(嘉永四年)以降、松前広休を奉行として海岸に砲台が16砲台33門築造された[25]。これにより、幕府の意図する海岸防備の体制が一応整った。

ただし沿岸砲台を含めて同城は、予算と立地の制約および当初からの築城目的もあり「海からやってくる敵を撃退する」ことに特化した構造となっている。これが後年の落城の原因と推測される。
戊辰戦争

明治元年(1868年)10月、蝦夷地に上陸し五稜郭を占領した旧幕府軍は土方歳三を指揮官に、彰義隊、陸軍隊、額兵隊、新撰組ら700名で松前攻略軍を編成し、10月27日に五稜郭を出発した[26]。11月1日(1868年12月14日)には蟠竜丸津軽藩の偽旗を掲げて松前湾に進入した上で松前城を砲撃したが、藩は松前城と各砲台から反撃し、蟠龍は沖に逃れた[27]


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