まつうち のりぞう松内 則三
プロフィール
出身地 日本東京府(現:東京都)
生年月日1890年7月28日
没年月日 (1972-01-31) 1972年1月31日(81歳没)
最終学歴慶應義塾大学部理財科
勤務局NHK東京中央放送局
職歴日本電灯→NHK
活動期間1925年 - 1950年
ジャンルスポーツ中継
担当番組・活動
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松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日[1])は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 松内則定の三男として、東京市本所区(現:東京都墨田区)で生まれる[2](兵庫県士族の家系であったため、兵庫県出身と書かれた資料もある[3])。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学部理財科[3](現:慶應義塾大学経済学部)を経て日本電灯へ入社するが、1925年[1]にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した[4]。1929年秋季の六大学野球・早慶戦中継[5]の終わりで、「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽……」と球場の風景を描写した[4][6]。このアナウンスは評判となり、再録[6]のSPレコード盤『早慶野球争覇戦』が1930年10月に発売され[注 1][7]、15万枚の売り上げとなった[8]。松内は毎回、ゲームセットの際にこのアナウンスで終えることを恒例とした[4]。 1928年の春場所から始まった大相撲の中継放送において、相撲の実況中継を日本の放送史上はじめて行った[9][10]。松内は当初「左四つ」「右四つ」の区別もつかないほどルールに無知だったため、國民新聞の記者・石谷勝
来歴・人物
松内の大相撲中継では、実況の合間に力士のしこ名にちなむ川柳や狂歌をはさんだ。これは取り組みの前後や仕切りの際の間を埋めるために、桟敷席で観戦していた久保田万太郎や久米正雄が即興で書いて松内に渡し、読み上げたのが最初であったという[10]。長い仕切りで知られた若葉山鐘が立ち上がった際の「若葉山もみじのころに立ち上がり」[4][9](久米作と伝わる[10])、常ノ花寛市が現役を引退した際の「いつまでも馥郁(ふくいく)と咲け常ノ花」などが知られる。
1932年4月17日に、目黒競馬場における帝室御賞典、4月24日に第1回東京優駿大競走(日本ダービー)の実況を務めた[12]。同年行われたロサンゼルスオリンピックでは現地・アメリカ合衆国へ赴き、初の海外から日本へ向けたオリンピック中継を行った[13]。