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出典検索?: "松倉重政"
凡例松倉 重政
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕天正2年(1574年)?
死没寛永7年11月16日(1630年12月19日)
戒名龍珠院殿雲厳宗関大居士
墓所長崎県島原市中堀町の江東寺
官位従五位下、豊後守
幕府江戸幕府
主君筒井順慶→定次→徳川家康→秀忠→家光
藩大和五条藩主→肥前日野江藩主
氏族松倉氏
父母父:松倉重信、母:秦楽寺氏
兄弟重政、重次
妻筒井定慶の娘
子勝家、重利、三弥、娘(藤堂嘉以正室)、娘(坊城俊昌室)
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松倉 重政(まつくら しげまさ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将、大名。大和五条藩主、肥前日野江藩初代藩主。松倉重信の長男。
日野江に入封後は苛政と搾取を行い、子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。 はじめは筒井順慶に仕えていたが、順慶の没後、養子の定次が伊賀に転封されると、重政は大和に残って豊臣家の直臣となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは単身参陣して徳川家康に認められ、大和の五条二見城主となった。五条では諸役を免除して商業の振興を図るなど、城下町の整備を行った。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。 元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって、従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。この島原城の普請の際に功のあった千々石村の和田四郎左衛門義長の訴えにより、海風による塩害を防ぐために千々石海岸に堤防を築き松を植えさせた。この松は今日も防風林として千々石町に残っている。 さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。
生涯