松代藩
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松代城旧松代藩藩邸。昭和初期に神奈川県藤沢市龍口寺へ移築された(現在の龍口寺大書院)

松代藩(まつしろはん)は、江戸時代信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)の松代城居城とした藩。信濃国北部の川中島4郡と呼ばれる地域を領した。

川中島4郡を治めた藩については、川中島藩(かわなかじまはん)と呼称されることもある。江戸時代初期には酒井家(左衛門尉)福井松平家などが入った。1622年、松代を城地として真田家が就封し、10代約250年にわたって存続して廃藩置県を迎えた。このため一般に「松代藩」は真田氏の藩(真田松代藩)を指すことが多い[1]。真田家時代の石高はおおむね10万石で、信濃国内の藩では最高の石高を有した。
名称
「川中島四郡」詳細は「川中島」を参照

「川中島」はもともと、善光寺平のうち千曲川犀川とに挟まれた扇状地一帯を指す呼称であったが、のちにこの地域を含む信濃国北部(奥信濃)一帯を指す広義でも使われるようになった[2]

川中島四郡とは高井郡水内郡更級郡埴科郡の四郡を指す[2][1]。現在の行政区画では

高井郡(現在の上高井郡下高井郡及び中野市須坂市

水内郡(現在の上水内郡下水内郡及び飯山市長野市

更級郡

埴科郡千曲市を含む)

にあたり、おおむね現代の北信地方に相当する。
「川中島藩」と「松代藩」の区分

書籍によって、「川中島藩」と「松代藩」は別の藩と扱われたり、同一の藩の別名として扱われたりする。『藩と城下町の事典』によれば、松平忠昌の頃までは「川中島領」と「松代領」に明確な区別はなかったという[1]。本項では「川中島藩」と「松代藩」を一体のものとして扱う。

『角川新版日本史辞典』巻末の「近世大名配置表」では藩名「松代」として森・松平忠輝・松平忠昌・酒井・真田の各氏を記している。同様に、『日本史広辞典』巻末の表「大名配置」では「松代藩」として田丸・森・松平忠輝・松平忠昌・酒井・真田の各氏の変遷を記す[3]

『角川日本地名大辞典』は「松代藩」の項目において豊臣政権期からの領主を記しているが、松平忠昌までは「海津藩」または「川中島藩」、酒井忠勝以後を「松代藩」と呼ぶのがふさわしいとしている[4]。『藩と城下町の事典』は、「川中島藩」(田丸・森・松平忠輝・松平忠昌・岩城)[5]と「松代藩」[1]を分けて掲載しており、「便宜的に忠昌までを川中島藩とし、酒井忠勝以後を松代藩とする」[1]としている。

上記のように、江戸時代初期までに川中島領に入封した大名のいずれを「川中島藩主」と扱うかについても、書籍によって差異がある。関ケ原の合戦によって改易された豊臣大名である田丸直昌は「藩」の定義によっては除外され、岩城貞隆は「信濃中村藩」として、福島正則は「高井野藩[注釈 1]として扱われることがある。

『藩と城下町の事典』は、「一般に松代藩というときは酒井氏転出後の真田松代藩を指すことが多い」[1]とも述べている。
「松代」の表記

松代城は、戦国期の海津城を原型とする城で、古くは「待城」や「松城」と呼ばれた[6]。正徳3年(1713年)[7]、真田家3代藩主・真田幸道のときに[6]幕命によって「松代城」と改められた[6]。このため、城名・藩名・地名として「海津(藩)」[4]「待城(藩)」や「松城(藩)」が用いられることもあるが、本項では便宜上「松代」に統一する。
沿革
川中島藩時代

川中島四郡は信濃国北部の高井郡(現上高井郡下高井郡及び中野市須坂市)、水内郡(現上水内郡下水内郡及び飯山市長野市)、更級郡埴科郡千曲市を含む)の四郡を指す。戦国時代川中島の戦い武田氏上杉氏の係争地となったところであり、現在の北信地方に該当する。しかし北信地域支配の中心は、武田信玄上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。

近世大名領の成立は関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。忠政は川中島領の領国化に勤め、「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により全領一揆が発生したがこれを徹底的に殲滅した。1603年慶長8年)美作国一国(津山藩)に加増転封となった。海津城は忠政の統治時に「待城」と改名されたとされる。

その後徳川家康の六男松平忠輝越後国高田藩へ移る1610年(慶長15年)までの7年間、14万石を領有し、高田へ加増転封となった後も新領土に旧領が含まれており、1616年(元和2年)改易されるまでの間領知した。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。忠輝領有期間には家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力し、そのため花井神社が建立され業績を称えられている。

その他、幕府によって広島藩を改易された福島正則の新領地となった高山村高井野藩)や大坂の陣で加増を得た岩城氏の飛地領となった木島平村信濃中村藩)も川中島藩と呼ばれる場合がある。
福井松平家・酒井氏統治時代

1616年元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代(松城)藩領と呼ばれる。忠昌は1619年(元和5年)に越後国高田藩へ転封。

代わって酒井忠勝が10万石で入封するが、1622年(元和8年)には出羽国庄内藩に移る。この間、同地には岩城家(1616年-1623年信濃中村藩:後出羽国亀田藩に転封)と福島正則(1619年-1624年:安芸国広島藩改易後の堪忍領。後に改易)の領地(高井野藩)も存在し、これらも川中島藩と称されることがある。
真田氏統治時代真田邸文武学校


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