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松井 石根
陸軍大将 松井石根
生誕1878年7月27日
日本 愛知県
死没 (1948-12-23) 1948年12月23日(70歳没)
日本 東京都
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1897年 - 1935年
1937年 - 1938年
最終階級 陸軍大将
墓所殉国七士廟
靖国神社
署名 =
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松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者[1]として、「日支提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯[2])を受け、処刑された。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}愛知県愛知郡牧野村(現・名古屋市中村区牧野町)出身[要出典]。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。 在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。[3] 幼年学校卒業後、松井は順調に陸軍士官学校へと入学した。 明治30年、陸軍士官学校(9期)を次席で卒業し、明治34年に陸軍大学校(18期)に入学した。明治37年、陸大在学中に日露戦争勃発により陸大を中退し、歩兵第6連隊中隊長として従軍した。遼陽会戦では戦傷を負っている。この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった[3]。荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。[4] 明治39年、陸大を優等(次席)で卒業し恩賜の軍刀を拝受した。松井は、前途を嘱望される逸材として、参謀本部への配属となり、一旦、フランスへと派遣された[3]。 明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである[3]。
生涯
出自
中国赴任時代?孫文、?介石を支援