松井大輔
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モデルの「松井大典」とは別人です。

松井 大輔

PFCスラヴィア・ソフィア時代(2012年)
名前
愛称ダイスケ、ダイ、ボーイ
カタカナマツイ ダイスケ
ラテン文字MATSUI Daisuke
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1981-05-11) 1981年5月11日(43歳)
出身地京都府京都市山科区
身長175cm
体重66kg
選手情報
ポジションMF / FW(サッカー)
アラ(フットサル)
利き足右足
ユース
1997-1999鹿児島実業高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2000-2004 京都パープルサンガ 126 (16)
2004-2008 ル・マンFC 119 (15)
2008-2009 ASサンテティエンヌ 22 (1)
2009-2011 グルノーブル・フット38 45 (5)
2010→ FCトム・トムスク(loan) 7 (0)
2011-2012 ディジョンFCO 3 (0)
2012-2013 PFCスラヴィア・ソフィア 11 (0)
2013 レヒア・グダニスク 16 (4)
2014-2017 ジュビロ磐田 85 (9)
2017 オードラ・オポーレ 4 (0)
2018-2020 横浜FC 36 (2)
2021 サイゴンFC 7 (0)
2021-2022 Y.S.C.C.横浜フットサル
2022-2023 Y.S.C.C.横浜 26 (3)
通算506 (55)
代表歴2
2002-2004 日本 U-2325 (2)
2003-2011[1] 日本31 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月20日現在。
2. 2011年1月13日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

松井 大輔(まつい だいすけ、1981年5月11日 - )は、京都府京都市山科区出身の元プロサッカー選手、元フットサル選手、サッカー指導者。現役時代のサッカーのポジションはミッドフィールダーフォワード、フットサルのポジションはアラ。元サッカー日本代表

妻はタレント加藤ローサ
来歴
プロ入り前

寺西幼稚園卒園。京都市立大宅小学校進学。同級生の兄がサッカーをやっていたこともあり、小学3年生より大宅サッカースポーツ少年団に18期生(大宅小学校の生徒のみのチーム)で入団。同チーム内には同級生の山崎雅人も在籍し、他にも後にJリーグや実業団で活躍した同級生も多く在籍していた。特に松井と山崎は多くの大会で優秀選手賞を受賞した。チームとして小学校時代に約700試合をこなし敗戦は6敗程度という驚異的な強さのチームであったが、小学校5年生の時、京都アシックス杯において鈴木啓太擁する静岡県の清水FCに0-7で大敗。当時から府内でも有名な選手であり京都府選抜、関西選抜など数多く選抜チームに選ばれていた。

京都市立大宅中学校に入学し2年間を過ごすも、3年への進級と同時に安アパートへ移り住み、関西選抜などで監督を務めていた牧戸万佐夫がいる京都市立藤森中学校に転校[2]。この当時から幅広くサッカー留学などを経験をし、短期留学先のパリ・サンジェルマンFCからテスト生としての誘いを受け、フランスサッカーへの挑戦を望むも実父に諭され高校進学に進路変更。

高校は地元の京都を離れ鹿児島実業高校に進学し、プレーとテクニックのレベルを上げていった。3年生時の全国高校選手権では2回戦で大久保嘉人擁する国見高校を、準々決勝では田中達也擁する帝京高校を破り、準優勝を経験。

同校の2年先輩に遠藤保仁、同級生に那須大亮、1年後輩には上本大海や後に京都で共にプレーした田原豊がいる。
京都パープルサンガ

2000年、複数のJクラブから打診があったが、憧れの三浦知良が当時在籍していた京都パープルサンガに加入し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。プロ1年目からリーグ戦で22試合出場し、プロ初ゴールを挙げるなどの活躍を見せたものの、チームは年間順位で16チーム中15位と低迷しJ2へ降格してしまう。

2001年、背番号を前年の26から10へと変更。リーグ戦37試合出場7得点という結果を残し、チームのJ1復帰に貢献する。

2002年黒部光昭朴智星らと共に、クラブ初タイトルとなる同年度の天皇杯優勝に貢献する。

2003年は3トップの一角であった朴智星の移籍や黒部の故障離脱もありチームは低迷、再びJ2降格を経験した。
ル・マン

2004年9月1日に京都からフランス2部リーグ・ドゥル・マンUC2005年6月までの契約でレンタル移籍。背番号は、空き番の中で最も若い番号は『16』であったが、『16』は控えGKの番号である事から、次に空いていた『22』になった。松井の加入後、ル・マンは2部の中位から一気に1部昇格圏の2位にまで浮上し、その中心となって活躍した松井は、『le soleil du Mans (ル・マンの太陽) 』と呼ばれた。

レンタル期間終了後、2005年7月にル・マンに完全移籍。1部リーグリーグ・アンでのデビュー戦となった2005-06シーズン初戦の対リヨン戦で先制ゴールをアシスト、第12節の対RCストラスブール戦では鮮やかなミドルシュートを決めて初ゴールを記録。サイドアタッカーとしてル・マンの攻撃陣を牽引し続ける。2006年1月にはトロワAC戦での2ゴールなどが認められた形で、日本人初、ル・マンUCのチーム史上初である月間MVPを受賞する[3]。このシーズンには、リーグ・アンのアシストランキングで3位の8アシスト[4] を記録するなど、チームの残留に大きく貢献する。

2006-07シーズンは、初戦のニース戦でアシストを記録したもののサッカー選手の職業病とも言える腰痛に苦しめられ、2007年1月にはトロワ戦で2得点を記録したものの、シーズン後半は6試合連続で欠場した。しかし腰の状態が上向き、よりゴールの位置に近いセカンドトップ気味のポジションに配されてからは、最後の4試合では2ゴール1アシストを記録した。ケガなどにも苦しんだリーグ・アン2年目のシーズンではあったが、「今までで一番、プレーについて考え、自分のプレーについて研究したシーズンだった」[5] と本人は振り返った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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