人口36,438人、面積135.55km²、人口密度269人/km²。(2024年1月1日、推計人口)[注釈 1]
以下の3町を含む。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。 杵島郡は、古くは[1]「肥前国風土記」「延喜式」などに見えて、「和名抄」では「岐志万」と記す。 景行天皇が九州巡幸[1]した時、この郡にある磐田杵之村(いはたきのむら)に御船を停泊させた。その時、従って来た船の??(かし)の穴から自然と冷水が湧いたため、転じて杵島と呼ばれる。郡は多駄(大陀)・杵島(木之万)・能伊(乃意)・島見(志万美)の4郷である。 鎌倉時代の主な在地領主は、塚崎の後藤氏・武雄社大宮司職を相伝する武雄氏・白石の白石氏[注釈 2]などがある。 室町時代には、同郡では後藤氏が台頭していて、小城郡の千葉氏も勢力を伸ばしている。後藤氏は竜造寺氏と長らく対立していたが、龍造寺隆信の三男の家信が養子に入っている。以後、子孫は武雄鍋島家として続く。(肥前武雄領2万1600石(物成8640石)・龍造寺一門) 江戸時代に全域が佐賀藩領になり、佐賀本藩領と蓮池領が混在していた。 知行村数村名
大町町(おおまちちょう)
江北町(こうほくまち)
白石町(しろいしちょう)
郡域
武雄市の大部分(若木町大字桃川を除く)
大町町の全域
江北町の大部分(惣領分の一部を除く)
白石町の全域
多久市の一部(南多久町大字花祭)
歴史
古代
中世
近世
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。(56村)
藩領肥前佐賀藩48村上小田村、下小田村、八町村、大町村、佐留志村、惣領分村、山口村、福母村、福田村、福富下分村、福吉村、東郷村、今泉村、廿治村、福富東分村、福富西分村、戸ヶ里村、辺田村、田野上村、坂田村、深浦村、築切村、牛屋村、横手村、遠江村、大崎村、大渡村、馬洗村、湯崎村、堤村、志久村、芦原村、中野村、川古村、富岡村、永島村、武雄村、甘久村、鳥海村、犬走村、袴野村、真手野村、永野村、大野村、神六村、宮野村、三間坂村、小田志村[注釈 3]
肥前蓮池藩5村川上村、山中村、上野村、上滝村、成瀬村
佐賀藩・蓮池藩3村本部村、大日村、片白村
明治4年
7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が佐賀県(第1次)、蓮池県の管轄となる。
11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により伊万里県の管轄となる。
明治5年5月29日(1872年7月4日) - 佐賀県(第2次)の管轄となる。
明治初年
福富東分村・福富西分村が合併して福富村となる。
川上村が中野村の、山中村が本部村の、上野村が永島村の、上滝村が富岡村の、成瀬村が芦原村のそれぞれ枝村扱いとなる。(50村)
明治9年(1876年)
4月18日 - 第2次府県統合により三潴県の管轄となる。
5月24日 - 長崎県の管轄となる。
明治11年(1878年)10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、行政区画としての杵島郡が発足。郡役所が武雄村に設置。
明治16年(1883年)5月9日 - 佐賀県(第3次)の管轄となる。
町村制以降の沿革1.武雄町 2.武雄村 3.朝日村 4.若木村 5.武内村 6.住吉村 7.中通村 8.西川登村 9.東川登村 10.橘村 11.橋下村 12.須古村 13.北方村 14.大町村 15.小田村 16.山口村 17.佐留志村 18.六角村 19.福治村 20.福富村 21.北有明村 22.南有明村 23.錦江村 24.竜王村(紫:武雄市 橙:江北町 桃:白石町 青:合併なし)
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(1町23村)
武雄町 ← 武雄村[柄崎・下西山および竹下・北ノ浦の各一部]、富岡村[富岡・八並](現・武雄市)
武雄村
朝日村 ← 甘久村、中野村、芦原村[元射場]、片白村[二俣](現・武雄市)
若木村
武内村
住吉村
中通村 ← 鳥海村、犬走村、三間坂村[一部](現・武雄市)
西川登村 ← 小田志村、神六村(現・武雄市)
東川登村 ← 永野村、袴野村(現・武雄市)
橘村 ← 大日村、片白村[二俣を除く]、永島村[永島・花島・溝ノ上を除く]、芦原村[成瀬](現・武雄市)