東野純直
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東野 純直
生誕 (1971-08-25)
1971年8月25日(52歳)
出身地 日本
鹿児島県鹿児島市
学歴鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校[1]
ジャンルJ-POP
職業シンガーソングライタープロデューサーラーメン通販店経営者
活動期間1993年 -
配偶者なし
公式サイト ⇒東野純直 Official Web Site

東野 純直(あずまの すみただ、1971年昭和46年〉8月25日 - )は、日本シンガーソングライタープロデューサーラーメン通販店経営者血液型A型。鹿児島県出身。
略歴

1971年(昭和46年)8月25日に生誕。19歳で福岡に進学し、当時21歳だった福岡在住の安部潤に初めて曲をアレンジしてもらい雷で頭を撃ち抜かれたような衝撃を受け、福岡で音楽活動を行う[2]。1992年(平成4年)10月には、第1回MusicQuest'92世界大会で審査員特別賞を受賞。

安部潤とほぼ同時に上京し[2]、1993年(平成5年)4月1日、テイチクレコードより「君とピアノと」で[3]、期待の新人アーティストと鳴り物入りでデビュー[4]。同年7月の2ndシングル「君は僕の勇気」は、安部潤にとっては初めてとなるシングル曲のアレンジデビュー作でもあったが[2]、約30万枚のヒットを記録[4]。同年に、1stアルバム『Actor&Actress』を立て続けにリリース[4]。その後も曲をリリースし、学園祭ツアーで全国10ヶ所を回る。シングル5枚アルバム3枚を出した後、1年ほど活動を休止。

1996年(平成8年)、レコード会社を東芝EMIへ移籍。同年5月9日、移籍第1弾シングル「深呼吸でゆく」をリリースする。

2000年(平成12年)3月31日、デビューから7年間所属していたヤマハ音楽振興会を離れる。同年4月1日、所属事務所を移籍し8月1日より「AZ YOU LIKE」というピアノスタイルトリオで活動開始。

2002年(平成14年)2月末、所属事務所である有限会社メイ・キッスカンパニーの終了に伴い、FC「MAGIC LAMP」が一時活動休止。5月1日より新事務所「Chest music works」設立。同年10月10日、デビュー10周年記念セルフカバーアルバム『I am.』をリリース。

2004年(平成16年)6月30日、4年半ぶりのフルオリジナルアルバム『Journal』をリリース。同年7月15日、コナミのゲームソフト『実況パワフルプロ野球11』のオープニング主題歌「PRIDE」の作詞とボーカルを担当。11月21日、アニメ『機動戦士ガンダム』の映像を、ジャンルに捕らわれない映像技術で構成している“EVOLVE”シリーズ「GUNDAM EVOLVE../」での10月CF曲に使われた「Black stars」が収録された『GUNDAM EVOLVE MONTHLY THEME SONG 1』がリリースされる。

2005年(平成17年)1月11日、オフィシャルサイトリニューアルに伴いURL変更。自身の活動以外にも、所属事務所第一弾アーティスト堀川千尋のデビューマキシシングルプロデュースや、1stアルバムに収録されていた「BIG GAME」をAkashiに提供するなど、プロデューサーとしての活動も行う。11月16日、11thアルバム『Key stone』をリリースをし、12月にはアルバムを引っさげて東名阪ツアーを行う。

2006年(平成18年)もプロデュース活動がメインとなり、山形国際ムービーフェスティバル2006のテーマソング「ノスタルジア」を歌う村井美樹の2ndシングルのアレンジ、シオダマサユキのデビューマキシシングル、arie(アーリー)のデビューシングル・2ndシングルのプロデュースに携わる。12月8日にほぼ1年ぶりとなるワンマンライブ、東野純直年末LIVE「ライブしわっす☆」にてL盤リリースに向けてのお試しCDとして「泣いてる君と情けない僕の歌」をライブ会場のみ限定販売を行う。

2007年(平成19年)4月1日、デビュー14周年を迎え、同日表参道FABにてワンマンライブを行い、L盤先行シングルとして「Light house」(c/w 永遠)をライブ会場のみの限定販売を行う。

2008年(平成20年)、株式会社アクロス エンタテインメント[5]に所属。10月1日、デビューから1995年までにテイチクでリリースを行っていたシングル(c/w含む)を、自身初となるベストアルバム『GOLDEN☆BEST 東野純直?アーリーシングルコレクション?』としてソニーミュージックよりリリース。

2009年(平成21年)6月3日、Maxi Single「731の朝」をリリース。

2010年(平成22年)4月1日、オフィシャルサイトリニューアルに伴いURL変更。12月1日、5年ぶりとなる12thアルバム『Loading myself』リリース。

2016年(平成28年)8月9日、44歳で東京郊外の昭島市でラーメン「支那ソバ 玉龍」を開店[3][4][6]。ラーメン店経営を営むかたわら音楽活動やラジオ番組なども行い、二足の草鞋を履いた活動を行う[3][4]。2021年(令和3年)8月22日、ファンクラブ「ALOVEZ“Deep”」を新設[7]

2023年(令和5年)5月7日、自身が経営するラーメン「支那ソバ 玉龍」を閉店し[8][9]、自身のラーメンは東野の通販サイト「AZ WEB SHOP」でインターネット販売している。30周年となる2023年(令和5年)4月からは、全国ツアー「東野純直UTATABI tour」も行う。
エピソード

鹿児島市立紫原中学校に通っていたが、その頃は約20人の学生集団に対し、自身も約20人ほど集めた仲間と共に、学校の近くにある公園で喧嘩になった事もある。当時は田上台に住んでおり、坂がきつく下ると唐湊墓地がある風景が自身の印象に残っており、2005年(平成17年)にはその当時の事を題材にした曲「まだ見ぬ世界」[注釈 1]を発表している。

鹿児島市立鹿児島玉龍高等学校に入学し[1]、1986年(昭和61年)頃から音楽活動を始め、バンドでは当初ドラムを担当していた。先生から怒られて丸刈りにされ坊主頭だった高校生の頃には、アナウンサー采野吉洋が司会を務めるMBC南日本放送ラジオ番組にも出演した事があり、釆野とはその頃からの仲のため毎年のように釆野のラジオ番組にゲスト出演している。

作詞作曲も手掛けていたため、デビュー翌年の1月か2月頃にはファーストシングルの印税が初めて入ったが[4]、渋谷を歩いていた時に気温の寒さからジャンパーが欲しいと銀行で金を引き出した際、残高の桁を数えたところ約500万円入っていた事で、その事に気付いた[4]。アルバムは10曲入りの場合1曲に10を掛けた印税となるため、その当時の印税は8000万円を超え[4][6]、最終的に家を1軒買えるくらいの金額が入って来る[4]。しかし、当時21歳だった東野は金が一気に入って来た事で、金はいつまでも入り続けて来るものと思い上がり[4][6]、翌年に納める税金の事を考えず1回で100万円単位の金を下ろし、ファーストクラスでニューヨークに行くなど大金を湯水のように使ってしまう[4]。ある日、ファーストシングルで最初に入って来た金額以上の税金が突然やって来た事で、税金の支払いに四苦八苦する事となり、加えて「君は僕の勇気」以上のヒット曲を出さなければならないという重圧がのしかかってくる事になり、後に東野は「辛かった」と当時を語っている[4]

デビュー当時は、万人に愛される分かりやすいJ-POP楽曲を追い求め、無心に美しいメロディー、包容力のある言葉や情景が浮かぶようなシーンを、曲や詞に反映し日々制作に明け暮れたが、デビュー翌年の1994年(平成6年)あたりから、オブラートで包んだ抽象的な雰囲気の歌が、時代に合わない感覚に制作する自分自身でさえ襲われるようになる[2]。音楽に触れるほど核心を得たくなり、UKサウンドのような混沌的な音楽に喜びを得るようになっていき、本来の己の背骨となった往年のロックスターに再度傾倒[2]。自らにしか出せない無骨な音楽を求め始め、J-POPからさらに向上しようという考えに至り、テイチクエンタテインメントから東芝EMIへの移籍がそのターニングポイントとなった[2]

CHAGE and ASKAと同じ事務所に所属していたため、事務所の先輩であるCHAGE and ASKAがシングル200万枚の売り上げを記録しても、次のシングルが180万枚だと「もう駄目だね」と言われてしまうほど厳しい世界だった事もあり、比較され「何で東野くんは30万枚なの?」と言われてしまう時代だったが[4]、東野はビッグヒットが続かず[4][6]3rdシングルの売り上げは約15万枚の結果となる[4]


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