東都大学野球リーグ
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東都大学野球連盟
創立1931
代表理事長:樫山 和男
参加チーム22
日本
前回優勝1部:青山学院大学(14回目)
2部:駒澤大学(7回目)
3部:東京農業大学(3回目)
4部:上智大学(15回目)
最多優勝1部:専修大学(32回)
2部:専修大学(23回)
3部:大正大学(39回)
4部:一橋大学(30回)
テレビ局スポーツブル
公式サイト ⇒東都大学野球連盟

一般財団法人東都大学野球連盟(とうとだいがくやきゅうれんめい、英語表記はTOHTO UNIVERSITY BASE BALL LEAGUE)とは、東京を所在地とした22校の大学硬式野球部で構成された4部制の大学野球リーグである。
概要

東都大学野球連盟は、旧制大学によるリーグから継続している数少ないリーグのひとつで、現在は全日本大学野球連盟傘下となっている。2016年の時点で全日本大学野球選手権大会で最多タイ、明治神宮野球大会では最多優勝をしているリーグであり、「人気の六大学」に対して「実力の東都」と評され、プロ野球界にも数多くの選手を送り出している[1]

出身選手についてはCategory:東都大学野球連盟の選手を参照。
略歴
前史大学専門学校野球連盟生る
(『東京朝日新聞』 1926年10月7日付朝刊3面)

1925年國學院大學専修大学日本大学東京商科大学東洋大学宗教大学(のちの大正大学)によって東京新大学野球連盟(後年の同名の連盟とは無関係)が結成され、同年春に第1回リーグ戦を実施。これは六大学野球の最初のリーグ戦である1925年秋より早いものであった[2]。しかし翌年には改編され、今度は國學院大學、日本大学、東洋大学、東京農業大学上智大学東京帝国大学農学部青山学院高千穂高等商業学校早稲田大学高等師範部、東京高等工芸学校などの専門学校(旧制)も加えて東京新十大学野球連盟と改称したが、歩調が合わず結局は永続しなかった。また、こうした大学の中には六大学リーグへの加盟を目指す動きもあり、1920年代から技量を整えつつあった日本大学、國學院大學、専修大学は、六大学リーグへの加盟を度々申請した[3]1929年には、リーグ戦の枠外で六大学各校が日大、國學院と各1試合の対抗戦を行うこととなったが[4]、その結果、現時点では実力不足と判断され、将来的な技量の向上次第で加盟を歓迎するとしながらも加盟は見送られた[5]
結成五大学リーグの開会式(戸塚球場

1931年、六大学リーグ加盟を断念した日本大学、國學院大學は、歴史学者で雑誌『野球界』の主幹でもあった横井春野の周旋により、専修大学、中央大学、東京農業大学とともに東都野球連盟の前身となる五大学野球連盟(当時は通称で新五大学野球リーグと呼ばれた)を結成した[6][7]。同年春に開始したリーグ戦の開会式は、東京市長永田秀次郎を招き盛大に執り行われた[8]。初年は田園調布球場などを使用したが、翌1932年より神宮球場の使用を開始。1936年、東京商科大学(現・一橋大学)が加盟する際に名称を現在の東都大学野球連盟と改称した。六大学野球連盟とは対照的に、戦後は新規加盟校を積極的に受け入れて規模を拡大、その後いくつかの大学の脱退を経て現在に至っている。なお東都大学連盟の設立経緯にまつわる説には諸説が存在している。(後述連盟創設時の経緯に詳細を紹介。)
近年

創設当時は全国的な統括組織が存在しなかったこともあり、東京六大学野球連盟関西六大学野球連盟と共に独立した連盟であったが、前述2連盟と共に第二次世界大戦後に結成した全国大学野球連盟を経て、現在は全日本大学野球連盟傘下となっている。2019年の時点で全日本大学野球選手権大会では設立以来永らく単独トップだった東京六大学野球連盟の優勝回数に次いでいる(準優勝まで含めると大差でトップ)、特に1990年?2015年の実績では六大学の優勝4回に対し東都12回と大差をつけている。また秋の明治神宮野球大会では東京六大学を抜いてトップの優勝回数。「人気の六大学、実力の東都」などとも評され[1]、他リーグに比して東都大学野球連盟出身のプロ野球選手の圧倒的な活躍を評する報道もなされている[9]。特に2部リーグまで強豪校がひしめき合い、入替戦を含めて高いレベルを誇るため2部所属校からも一定数プロ入り選手を輩出していることも特長である。
沿革商大参加承認 五大学野球「東都大学野球連盟」と改称(『東京朝日新聞』 1935年2月13日付朝刊3面)

1931年中央大学日本大学専修大学國學院大學東京農業大学が加盟する五大学野球連盟(当時、通称で新五大学野球連盟)として発足、早大戸塚球場にて発足式を開催。第1回リーグ戦は専大が優勝。

1932年 秋季に中央大学が初優勝。

1933年 秋季に日本大学が初優勝。

1935年 東京商科大学(現在の一橋大学)が加盟し、東都大学野球連盟へ改称。東京農業大学が脱退[3]

1936年 東京農業大学が復帰。A級、B級の二部制を採用(この年限り)[3]

1940年 東京慈恵会医科大学(数年後に脱退)、上智大学東京工業大学東洋大学、東京文理科大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)が加盟。第一部6校、第二部5校に分け、一部最下位と二部首位の入れ替え戦を施行。

1943年 文部省が戦時学徒体育訓練実施要綱に沿って大学リーグ戦の解散を要求(同日東京六大学野球連盟にも同様の要求)。連盟はこれを承認した[10]。それまでの各校の優勝回数は専修12回、中央7回、日大2回[3]

1946年 前年の第二次世界大戦終戦を受けて連盟の活動が再開。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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