東部戦線_(南北戦争)
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セブン・パインズの戦い

南北戦争の東部戦線(とうぶせんせん、英:Eastern Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国東部と大西洋岸で北軍と南軍が激突した戦線であり、戦争の全期間(1861年 - 1865年)、主戦場となった。本稿ではその戦いの流れを時間を追って概説する。
戦線の概要

東部戦線の主戦場はバージニア州ウエストバージニア州メリーランド州およびペンシルベニア州であり、コロンビア特別区および海岸の要塞やノースカロライナ州の海港も含まれる(カロライナ両州の内陸部では1865年に戦闘があったが、これらは西部戦線に含める)。

東部戦線には南北戦争の経過の中で一般に名の知られた作戦が含まれている。これはその戦略的重要性の故ではなく、人口集中部に近く、大きな新聞の発行所があり、対立する両軍の主要都市があったからである。実際北部の首都であるワシントンD.C.と南部の首都であるリッチモンドは両方とも東部に所在し、100マイル (160 km) 程度しか離れていない。あの広いアメリカではこれはほとんど目と鼻の先程度の距離であり、ワシントンD.C.に至っては目の前を流れているポトマック川を越えたらそこはもう敵地(バージニア州)と言うような状態だった。結果的に両軍の首都攻防戦が何度も行われ、多くの人の記憶に残ることとなった(また、どちらの軍でも東部で指揮を任されることのほうが西部に派遣されるより名誉な事だと思われていた)。北部人も南部人もその想像力は、米軍屈指の名将として名高いロバート・E・リー将軍が指揮する南部の北バージニア軍と、その名将に対抗するべくリンカーン大統領が次々と指揮官を変更した北部のポトマック軍の間の壮大な戦いに捉えられてきた。南北戦争の中でも最も流血の多い戦い(ゲティスバーグの戦い)と流血の多い一日(アンティータムの戦い)もこの戦線でのできごとだった。南軍を倒すためには西部戦線の方が戦略的に重要だったという議論がなされてきたが、1865年のアポマットクス庁舎でのリーの降伏という決断無くして戦争が終わったと双方の文民が考えられたかといえば、それはあり得ないことである。

戦線はアパラチア山脈と大西洋に挟まれていた。戦闘の大半はワシントンとリッチモンドの間の地域で行われた。この地域では、多くの川が主に西から東に流れており、北軍にとって接近経路や通信線となるよりも障害となっていたので、南軍の守備隊には好都合であった。このことは西部戦線の初期とは全く異なっており、北軍は輸送経路として当時の主要道路にのみ頼っていたので、両軍共に冬季の作戦行動には制限があった。北軍の利点は海や主要河川を制していたことであり、海洋に近く駐屯する軍隊への補強や補給を容易にしていた。

アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によって作られた作戦の分類では[1]、本稿で使うものよりも詳細になっている。NPS分類の小さなものは省略するか、大きな作戦の中に組み込んだ。NPS分類にある東部戦線での160の戦闘のうちほんの幾つかを記述することになる。
東部戦線の主要指揮官

北軍中将
ユリシーズ・グラント

北軍少将
ジョージ・マクレラン

北軍少将
ジョン・ポープ

北軍少将
アンブローズ・バーンサイド

北軍少将
ジョセフ・フッカー

北軍少将
ジョージ・ミード

南軍大将
ロバート・E・リー

南軍大将
P・G・T・ボーリガード

南軍大将
ジョセフ・ジョンストン

南軍中将
ジェイムズ・ロングストリート

南軍中将
ストーンウォール・ジャクソン

南軍中将
ジュバル・アーリー

初期の作戦(1861年)

1861年4月、サムター要塞の陥落後、両軍共に軍隊の創出で大わらわであった。エイブラハム・リンカーン大統領は反乱軍を抑えるために75,000名の志願兵の召集を命令し、これが即座にバージニア州を含む4つの州の脱退に繋がった。アメリカ陸軍には当時16,000名の兵士しかおらず、その半分以上は西部に散らばっていた。陸軍は米英戦争米墨戦争の古参兵である年長のウィンフィールド・スコット中将に指揮されていた。アメリカ連合国の方は、一握りの連邦軍士官と兵士が退役して南軍に加わった。連合国軍の体系は当初各州によって整えられた。(強い中央政府に対する各州の嫌悪感で助長された連合国防衛軍の分散した性格は戦争の間の南軍の弱みの一つでもあった。)

最初の敵対的行動の幾つかはバージニア州西部(現在のウエストバージニア州)で起こった。ジョージ・マクレラン少将がオハイオ軍管区(Department of the Ohio)の部隊を指揮し、グラフトンから行軍を命じてジョージ・ポーターフィールド大佐の指揮する南軍を攻撃した。1861年6月3日フィルーピーの戦いあるいはフィルーピーの競走と呼ばれる小競り合いは、この若い将軍を大衆が認識する以上の大した意味は無かった。7月に入ってリッチマウンテンの戦いで勝利し、マクレランに昇進の機会が訪れ、ポトマック軍の指揮官となった。この作戦で小さな戦闘が続いている間、ロバート・E・リー将軍は元アメリカ陸軍の有能な大佐という評判にも拘わらず、戦闘に関わることがなく、ぱっとしない成果によって「リーばあさん」という見下したような渾名まで頂戴した。リーは間もなくカロライナで要塞を築くために転出した。

この戦争での最初の重要な戦闘は6月10日にバージニア州東部で起こった。北軍のベンジャミン・バトラー少将はモンロー砦に駐屯しており、ハンプトンとニューポートニューズからの合流部隊を南軍の前線基地の攻撃に送った。モンロー砦近くのビッグベセルの戦いジョン・マグルーダー大佐が南軍としては初めての勝利を掴んだ。
第一次ブルランの戦い

初夏にワシントン近辺の北軍野戦指揮官はアービン・マクドウェル准将であり、戦闘士官としてはあまり経験が無かったが、さらに経験の無い志願兵を率いていた。


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