東部占領地域省
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帝国東部占領地域省
Reichsministerium fur die besetzten Ostgebiete

組織の概要
設立年月日1941年7月17日 (1941-07-17)
解散年月日1945年5月8日 (1945-05-08)
管轄 ドイツ国
本部所在地ベルリン
監督大臣.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

アルフレート・ローゼンベルク

帝国東部占領地域省(ていこくとうぶせんりょうちいきしょう、ドイツ語: Reichsministerium fur die besetzten Ostgebiete)は、1941年7月17日ナチ党政権下のドイツ国政府が設立した、東部占領地域を統括した省庁である。
概要ティーアガルデン地区ラウフ通り17/18番地にある元在独ユーゴスラビア大使館(ドイツ語版)の建物。東部占領地域省が最初に設置された。1942年に東部占領地域省が接収した旧ソビエト大使館跡(ウンター・デン・リンデン63番地)に立つ在独ロシア大使館(ドイツ語版)。

東部占領地域省(Reichsministerium fur die besetzten Ostgebiete、以下RMfdbOと表記)は、東部省とも呼ばれ、第二次世界大戦中の1941年から1945年までの間、ドイツ国防軍が占領したバルト三国ソ連に対して、国民社会主義の文民行政を執行する中央機関であった。東部占領地域省は、ナチス党の主席思想家であるアルフレート・ローゼンベルクが大臣を務め、東部市域とウクライナ東部総合計画に含まれ、人種イデオロギーに基づく国家秩序を形成した。同省の主要目標は、占領した東部地域を政治面でのゲルマン化を図りつつ、同時に東欧ユダヤ人の絶滅を遂行することであった。T4作戦への参加を皮切りに、東部占領地域省は、RSHA司法省外務省と並んで、戦争中のユダヤ人絶滅に関わったナチス党の中央機関となった。同省は、1941年ベルリンティーアガルデン地区ラウフ通り17/18番地に設立された。
設立前史
ナチス幹部内での設立構想

1941年3月3日、ヒトラー国防軍最高司令部に対して、初めて東部省の設立計画があることを発表した。この発表は、バルバロッサ作戦の計画について、ヴィルヘルム・カイテルと打ち合わせていた時に行われていた。

ヒトラーは、占領した東部地域の行政を軍に任せるのは難しいと考えていた[1]。1941年3月26日、ラインハルト・ハイドリヒは、国家元帥であるヘルマン・ゲーリングとの対談についてメモを残している。ハイドリヒのメモには、「私(ハイドリヒ)は、ゲーリング閣下にユダヤ人問題に関して、簡潔に報告を行ない、私の草案を提出した。ゲーリング閣下は、一点変更を命じた。その変更点は、ローゼンベルクの職責に関してであり、それを変更の上再提出を命じた。」[2]。このことから、この時点で既にローゼンベルクが東部占領区域を主管とするとされていたことがうかがえる。また、このメモの日付は、ローゼンベルクがフランクフルト・アム・マインに、『高等教育機関』の第一部門である、『ユダヤ人問題研究所(IEJ)』を設立した日付と一致する。同研究所の開所式では、ハイドリヒのメモではユダヤ人問題の解決ではなく、終末論的な[3]『(ユダヤ人問題の)最終的解決』という言葉が既に使われていた。クラウス・シッケルト(ドイツ語版)は、南東欧のユダヤ法に関するIEJの記事の中で、3日間の祝賀会中に次のように表した。「状況はますますスピードを上げて、最終的解決に向かって進んでいる。」[4]。そして1941年3月29日、アルフレート・ローゼンベルクは、フェルキッシャー・ベオバハター紙に、「ヨーロッパのユダヤ人問題は、最後のユダヤ人がヨーロッパ大陸から去った時に初めて解決されるであろう。[5]」という発言が掲載されている。東部占領地域省の最初の2ヶ月間、ナチス党の指導者は、『ユダヤ人問題の最終的解決』という、ぼかした表現を初めて使用した[6]。こうして、東欧地域における、全ての『措置』については、ローゼンベルクと協議することが通達された[7]

1941年4月2日、ソ連侵攻への準備が進む最中、ローゼンベルクとヒトラーの間で対談が行われた[8]。ローゼンベルクはこの時の会話を次のように日記に記している。「『ローゼンベルクよ!今こそ君の出番がやってきたぞ!』、総統のこの言葉で2時間にわたる対談は終わった。(中略)総統は、今後東部においての展開を詳しく説明された。これについては、私は日記に書きたくない。(中略)総統は私に、緊張下にあるソ連軍とその人間の 精神状態や、ソ連におけるユダヤ人の数について、お尋ねになられた[9]。(中略)そして、総統は最後にこう言い残した。「ソ連関連の問題については、私としては、君が省を設立し、引き継いでもらいたい。全方向へのガイドラインを策定せよ。金のことは気にするな[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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