東邦電力
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東邦電力株式会社
Toho Electric Power Company, Limited.

東邦電力が建設した名古屋火力発電所
種類株式会社
略称東邦・邦電
本社所在地 日本
東京市麹町区丸ノ内1丁目6番地
東京海上ビルディング
設立1921年(大正10年)10月18日
(関西電気株式会社として成立)
1922年(大正11年)6月26日
(関西電気より東邦電力へ社名変更)
解散1942年(昭和17年)4月1日
業種電気
事業内容電気供給事業
歴代社長伊丹弥太郎(1922 - 1928年)
松永安左エ門(1928 - 1940年)
竹岡陽一(1940 - 1942年)
公称資本金2億6100万円
払込資本金同上
株式数522万株(額面50円払込済)
総資産5億581万4千円
収入6220万1千円
支出5056万6千円
純利益1163万5千円
配当率年率8.0%
株主数4万6318人
主要株主千代田生命保険 (3.4%)、帝国生命保険 (3.3%)、明治生命保険 (2.9%)、東京海上火災保険 (1.0%)
決算期4月末・10月末(年2回)
特記事項:資本金以下は1941年10月期決算による[1]
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東邦電力株式会社(とうほうでんりょく、英文社名:Toho Electric Power Company, Limited.[注釈 1])は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。当時の大手電力会社、通称「五大電力」の一つ。

愛知県名古屋電灯福岡県九州電灯鉄道という2つの電力会社を主たる前身とする。名古屋電灯の後身関西電気と九州電灯鉄道が1922年(大正11年)6月に合併して成立した。中部九州両地方の中核電力会社として発展し、最終的に中部・関西四国・九州にまたがる14府県に供給区域を広げた。

1942年(昭和17年)4月に解散。発電所や供給区域はその後の再編で分割され、中部電力関西電力四国電力九州電力の4社に継承された。
概要1930年代の東邦電力の広告。

東邦電力株式会社は、愛知県名古屋市を中心に東海地方で供給区域を広げた名古屋電灯株式会社と、福岡県福岡市に本社を置き九州北部で事業を展開した九州電灯鉄道株式会社が合併して成立した電力会社である[2]。しかしその成立の過程は、奈良県の電力会社関西水力電気株式会社1921年(大正10年)10月に名古屋電灯を吸収合併して関西電気株式会社に社名を変更し、さらに翌1922年6月に九州電灯鉄道を合併の上で東邦電力へと改称する、という流れで複雑である。従っていずれの合併でも存続会社となった関西水力電気が法律上の前身会社であり[2]、会社設立は1905年(明治38年)11月29日ということになる。だが名古屋電灯の方が1887年(明治20年)設立と歴史があり、規模も大きかったので、東邦電力自身は発祥を1887年と定義していた[注釈 2]

東邦電力が発足した第一次世界大戦後から大正末期にかけて、日本では5つの電力会社が業界内で巨大化していた[3]。この大手5社がいわゆる「五大電力」で、東邦電力に加え、関東地方東京電灯関西地方宇治川電気、電力卸売りの大同電力日本電力を指す[3]。東邦電力の会社規模は東京電灯に次ぐ業界2位であり[4]資本金は発足当初から1億円を超え最終的には2億6100万円に達した。業界内の「電力戦」と呼ばれる市場競争にも加わり、特に1920年代半ばには子会社を通じ関東地方で東京電灯との間で需要家争奪戦を展開した。なお五大電力中大同電力は同じ旧名古屋電灯を前身とするという点で姉妹会社にあたる。

主要前身会社3社のうち、東邦電力における経営陣の主体となったのは旧九州電灯鉄道経営陣であった。特に松永安左エ門が関西電気時代から副社長、1928年(昭和3年)からは社長としてが会社を主宰した(松永は戦後電気事業再編成審議会会長・電力中央研究所理事長を歴任)。松永の持論を反映し会社は「科学的経営」を経営方針に掲げた。電気の供給区域は再編による増減があるが、最終的には愛知・岐阜静岡三重滋賀京都・奈良・和歌山兵庫徳島・福岡・佐賀長崎熊本の計1府13県に及ぶ[5]。本店は事業地外の東京市に構え、名古屋市や福岡市をはじめ供給区域内の18都市に支店を置いた。これらの地域に供給する電源を確保するため飛騨川を中心とする水力発電所建設や都市郊外での大規模火力発電所建設に取り組んだ。

成立過程のみならず会社解散直前に至るまで事業統合を繰り返しており、統合した会社からガス供給事業など非電気事業を引き継ぐこともあったが、そうした兼業部門は九州電灯鉄道の合併から1934年(昭和9年)まで直営で残った九州の軌道事業を除いて早期に整理された。兼営事業のうちガス供給事業の受け皿となった会社の一つに東邦ガスがある。同社を筆頭に、電気・ガス・鉄道という公益事業会社を傘下に多数抱え、東邦電力グループを形成した。

1930年代末以降の戦時下における電力国家管理に際し、東邦電力では1939年(昭和14年)から1942年(昭和17年)にかけて3度にわたって設備を日本発送電出資し、さらに1942年実施の配電統制で残余設備を中部配電関西配電四国配電九州配電へと出資した。これら国策電力会社計5社へと設備を引き渡した東邦電力は1942年4月1日付で解散して消滅し、東邦電力グループも解体された。5社に分割された東邦電力の電気事業は戦後、中部電力関西電力四国電力九州電力の4社に継承されている。またかつての東邦電力グループのうち存続する会社に東邦ガスや西部ガスイビデン(旧・揖斐川電気)があり、その他グループ企業の系譜を引く会社としては西日本鉄道(西鉄)がある。
成立の経緯

以下、沿革のうち東邦電力成立(1922年6月)に至るまでの経緯について記述する。
名古屋電灯の拡大詳細は「名古屋電灯」を参照名古屋電灯が完成させた八百津発電所(現・旧八百津発電所資料館

東邦電力の前身名古屋電灯株式会社は、1887年(明治20年)9月20日に設立された、東京電灯に次ぐ国内2番目の電力会社である[6]。当初の資本金は7万5000円で、旧尾張藩士族が経営にあたり、名古屋市内を対象として2年後の1889年(明治22年)12月より供給を開始した[6]。開業時の電灯取付個数は約400灯で、電源は25キロワット (kW) 発電機を4台備える火力発電所であった[6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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