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東邦生命保険相互会社(とうほうせいめいほけん 英語名:Toho Mutual Life Insurance Company)は、かつて存在した日本の生命保険会社(相互会社)である。1999年(平成11年)6月に経営破綻し、保有していた保険契約は外資系のAIGエジソン生命保険を経てジブラルタ生命保険に引き継がれている。
東京都渋谷区の金王坂にあったかつての本社ビル「東邦生命ビル」は「渋谷クロスタワー」となり、銀座にあった旧本社ビル「銀座東邦生命ビル」は建て替えられ、商業施設「ZOE銀座」となっている。 前身である「徴兵保険」は、1898年(明治31年)5月に設立された生命保険会社であったが、日露戦争後の放漫経営がたたり、経営危機に瀕していた[1]。その折に、九州の実業界で活躍していた太田清蔵 (4代目)に再建依願の話が持ち込まれた[1]。4代目は九州で安田財閥系の保険会社の九州代理店をしていた経験から再建は可能と判断し[1]、1909年(明治42年)に、徴兵保険社の経営を無報酬で引き受けた[2]。 徴兵保険とは、掛金を満期の徴兵年齢(20歳)まで払い続けると保険金を戻すという戦前ならではの商品で、4代目が社長に就任後、保険契約が順調に伸びて経営再建のきっかけにもなった[2][3]。その後、徴兵保険は第一徴兵保険に社名を変更した。 この4代目の跡を継いだのが、長男・清蔵 (5代目)で、5代目は三井銀行などを経て第一徴兵保険に入り、1936年(昭和11年)社長に就任した[2]。終戦後、5代目は第一徴兵保険の大転換を指揮し、1945年(昭和20年)9月、社名を新日本生命保険と改め、一般の生命保険事業に切り替え、1947年11月、東邦生命保険と新発足させた[2]。5代目は弟の辯次郎に譲るまで25年間社長を務め[2]、浮世絵コレクターとしても名を馳せ、死後の1980年(昭和55年)1月、そのコレクションを基礎に太田記念美術館が開館している[1]。 辯次郎は16年間社長を務め、1975年(昭和50年)3月には渋谷駅前に本社が入る東邦生命ビルを竣工させ、1977年(昭和52年)6月、甥・清蔵 (6代目)
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