東運輸株式会社
Azuma Bus
種類株式会社
市場情報非上場
本社所在地 日本
〒907-0002
沖縄県石垣市真栄里908
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯24度21分13秒 東経124度11分03秒 / 北緯24.35361度 東経124.18417度 / 24.35361; 124.18417
東運輸株式会社(あずまうんゆ)は、沖縄県石垣市に本社を置く企業。市中心部の石垣バスターミナルを基点に、石垣空港とを結ぶ連絡バスや、石垣島内各集落とを結ぶ路線バス、および貸切バスを運行するバス事業者である。 石垣でのバス事業は1930年(昭和5年)に個人が石垣 - 白保での貨客輸送を行ったのが始まりであるが、営業不振でまもなく事業終了となった[1]。 1935年(昭和10年)には合資会社の八重山自動車商会が設立され、やはり石垣 - 白保でバスの運行を開始。1938年(昭和13年)には後に東運輸代表となる糸州長勝
歴史
発足前の石垣のバス事業
戦後、八重山通運社が日本軍からの払い下げトラックにより運行したが、1946年(昭和21年)1月に八重山支庁に接収され政府の事業となった[1]。
1950年(昭和25年)、ガリオア資金による日本製自動車の支給の際に、戦前からの業者との条件が付いた。該当者は八重山自動車商会の代表であった糸州長勝しかおらず、これを引き受けることとなった[1][2]。 1950年(昭和25年)6月2日、大浜町民を中心とした株主の協力を得て、130万円の資本金、12名の従業員で東運輸株式会社を設立。6月24日に路線バス事業、7月5日にトラック事業の認可を受け、9月2日にバス2台、トラック2台で運輸を開始した。バスは石垣から白保までを1日5往復し、移民入植により道路が開通するたび路線を拡大したが、車両故障などでバスが動けなくなると、運転手が会社へ連絡できる場所へ出るのに一晩かかることもあった[3][4]。 この頃は通勤・通学と言えばバス利用で、運行ダイヤも通勤・通学に合わせて編成するなど住民生活に密着した運営を行った。市街地と集落の間での物品輸送もバスが行っており、車掌は集落の住民から受けたメモを片手に買い物に忙殺される状況であった。貨客混載のため車内は満杯状態で、貨物専用車を1日1回路線バスの続行で走らせて対応した。パイナップル産業が活性化したのもこの頃で、作業員輸送で臨時便を運行する賑わいであった[4]。 昭和30年代前半は乗車率も稼働率も良好であったが、低運賃のため運賃収入が低めであったことや続々と開通する路線に対応するための車両購入費により経営状況は良くなく、増資に次ぐ増資で場を凌いだ。このような状況に株主は疲弊し、後述の他社参入の動きの表面化で株を手放す株主が続出。設立当初は20数名いた株主は数名にまで減少した。経営の立て直しに大型資本導入が必要な状況で、1959年(昭和34年)に沖縄バスから出資を仰ぎ、他社との競争に備えた[5]。 八重山交通(山田バス)とは激しい競争となり、新聞紙上を連日賑わすなど政争の具ともなった。山田バスは農業組合振興バスという名の貸切バスで乗合行為をする違法なもので、度々の警告にも応じず過当競争に陥った。山田バスへ行政処分の際は機動隊に出動準備要請をしてからナンバープレートを外す状況であった[5]。 その山田バスは経営危機に陥り、政府勧告により吸収合併することとなった。1963年(昭和38年)1月10日付で事業を譲受し、これによる事業計画変更では無駄な路線のほとんどが変更された。直接の競争は約3年であったがその後の経営にも大きく影響し、後遺症は1973年(昭和48年)3月の営業権償却まで続いた。沖縄バスが保有する株は1964年(昭和39年)1月24日付で全株を買い戻している[5][6]。 農業の近代化やモータリゼーションの進行により乗客が激減し、昭和40年台後半から単独路線として維持できない路線の統合、それでも維持できない路線の廃止が行われた[7]。
発足
経営危機、他社参入・吸収