江戸時代後期の京の儒医である橘南谿が日本の諸地方を巡遊し、現地で見聞した奇事異聞を基に編纂して出板した紀行、『西遊記(せいゆうき[1])』と『東遊記(とうゆうき)』を併せて東西遊記と称す(以下、両書を併称する場合は「両遊記」と記す)。
両遊記は南谿が天明2年(1782年)から同8年までに断続して日本各地を巡歴した際の記録を編述したもので、寛政7年(1795年)から同10年にかけて出板され、また板本以外に自筆稿本やその写本も現存しており、板行以前から両遊記は併せて「東西遊記」や「西東遊記(せいとうゆうき)」と称されていた[2]。なお、細かく見ると『西遊記』、『西遊記続編』、『東遊記』、『東遊記後編』となるが、前2者を併せて『西遊記』と、後2者を併せて『東遊記』と称するのが一般的である(以下、区別する際には「『西遊記』(正編)」「『西遊記続編』」等と記す)。また、南谿自身は板行された両遊記を後に『東西遊記』として統合する意図を有していたという[3]。
医家である南谿は『傷寒論』に関するもの等複数の医書も著しているが、本両遊記や随筆である『北窓瑣談』といった文人としての著作もあり、『北窓瑣談』は当代の名随筆と評され、両遊記も江戸時代後期を通じてたびたび版を重ねる等、むしろ本業よりも後者としての活動の方が著名であったと言え[4]、とりわけ両遊記は延宝期から元禄期(17世紀後期)に著された貝原益軒による一連の紀行と並んで江戸時代を代表する紀行とされる[5]。 京を中心に『西遊記』は南西日本(西日本)の記述、『東遊記』は北東日本(東日本)の記述が主となっている。紀行一般に見られる旅程に従って見聞を記すといった体裁を採らず、共通する主題は1章にまとめてそれらを旅程と無関係に配置する体裁を採る。 巡遊の見聞を主とすることから現代では紀行に分類されるが、板本両遊記は表題が『諸国奇談 東遊記』等となっており、また板本の大きさが書籍の分類によっておおよそ定められていた当時にあって紀行一般が大本(おおほん)
構成・文体
また、旅程とは無関係に配置する体裁を採った結果として、江戸時代前期におぼろげながらも存在したと思われる林羅山を中心とした名所記や地誌と相関する紀行の制作者集団によって創出された、著者が自身の移動を1本の線として捉えて日付を追いつつ見聞や感慨を記述した従来の紀行とは異なる、日本の国土を面として俯瞰し把握する観点を基本とした新しい地誌的紀行の流れを汲んだものとも評価できるが[7]、旅程と無関係に主題ごとに配置する体裁は先行する百井塘雨の『笈埃随筆』も同様であり、そこに塘雨の影響もうかがえる(後述)[3][4]。とはいえ、塘雨よりもさらに各章が一箇の短編として印象的にまとめられ[3]、しかも本業に関する医術にまつわる話からたわいもない話、教訓話といったさまざまな話題を平明で知的かつ合理的な文章で綴り、さらにそれらを絶妙に配分している点に特色を持つ[6]。またその文章は、内容が本業である所の医業に直接関係しない「奇事異聞」を記すものであったために、特に改まる必要もなかった結果として平明なものになったと思われるが、その平明さが功を奏し、かえって読者層を広げ板行を重ねる要因になったものとも思われる[4]。
さらに本文と共に注目に値するのが『東遊記』(正編)の挿絵で、そこには円山応瑞・同応受兄弟、山口素絢・渡辺南岳・福居竹堂・長沢蘆雪・吉村蘭洲・同孝敬父子・松村月渓(呉春)・東東洋・浅井義篤・村上東洲といった当代の名だたる絵師のものが施されている[4]。また、『東遊記後編』や『西遊記』(正・続編)にも挿絵があり、それらの絵師は不詳であるが、『西遊記続編』については、明徴を欠くものの速水春暁斎である可能性がある[8]。なお、全編を通してそれらの画題は、本文の情景を絵師が想像によって、または南谿自身による旅行中の素描を基にして描かれたものと思われる[8]。
出板経緯