東蒲原郡
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東蒲原郡(ひがしかんばらぐん)は、新潟県下越地方福島県との県境に接する

人口8,779人、面積952.89km²、人口密度9.21人/km²。(2024年4月1日、推計人口

以下の1町を含む。

阿賀町(あがまち)

概要

中心地域として、津川町が栄えた[1]

かつては越後国でありながらも長く会津地方の影響下にあり、郡の発足当初も福島県へ所属したが、のちの1886年から新潟県の所属となった[2][3]
郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。

阿賀町の大部分(岡沢・行地・新谷・綱木・古岐・中ノ沢[注釈 1]を除く)

阿賀野市の一部(小松)[注釈 2]

五泉市の一部(佐取)[注釈 3]

近代以前
越後国に所属

東蒲原郡にあたる土地は、7世紀飛鳥時代)の令制国制度によって、越後国(現在の新潟県本州部分にあたる)に所属した。
会津の勢力下

しかし、1172年承安2年、平安時代後期)に、越後国の豪族であった城氏城長茂(永用)が、隣接する陸奥国会津地方(現在の福島県の一部)の有力寺院である慧日寺僧侶乗丹坊に、自身の叔母を嫁がせた。そして長茂は現在の東蒲原郡にあたる「小川庄」を慧日寺に寄進し、緊密な関係を結んだ[2]

これにより東蒲原郡(小川庄)は会津の勢力による支配下に置かれ、また会津の文化圏に属することとなった[2]

以後700年間弱にわたって同郡は会津の勢力下にあり、1603年慶長8年)から1868年慶応4年)にわたる江戸時代においても、本郡の大部分は会津藩領地であった[4]
近代以降

1868年明治維新に続く1871年明治4年)の廃藩置県の直後においても、同様に会津地方を管轄した若松県に所属した。
福島県に所属

さらに1876年(明治9年)には、若松県が福島県[注釈 4]併合されたことで、本郡は福島県に属した。

さらに2年後の1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され、翌1879年明治12年)に福島県で同法の施行により行政区画としての「東蒲原郡」が発足した。
新潟県へ移管
若松県の分県論

若松県が福島県の一部とされたことで、東蒲原郡および会津地方の住民にとっては、自県の県庁が会津の若松町(現在の会津若松市)から、奥羽山脈を隔てて遠く離れた中通りの福島町(現在の福島市)へと移管されたことで不便や衰退をきたした[5]


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