モンゴルの歴史モンゴルの歴史
モンゴル高原
??葷粥山戎
戎狄
月氏匈奴東胡
南匈奴
丁零鮮卑
高車柔然
鉄勒突厥
東突厥
回鶻
黠戛斯達靼契丹
ナイマンケレイト大遼
(乃蛮)(客烈亦)モンゴル
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(ハルハ・オイラト)
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大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国
東胡(とうこ、簡体字: ?胡、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: D?nghu)は、中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部?満州西部に住んでいた遊牧民族。 「東胡」の命名にはいくつかの説がある。 [3]はっきりした事は解らないものの、殷晩期に遼西で栄えた夏家店下層文化を征服して断続的に入れ替わった遊牧生活を営んでいた集団のうち、故地に残留した部族が東胡の祖先に当たるとする説などがある。他には上記の夏家店上層文化に属する墳墓から一緒に埋葬された犬が見つかった(烏丸の習俗)ことと頭頂部を剃る習慣から、同地域にあった土方や後の周代に在った屠何 [4]晋の文公,秦の穆公の時代(春秋時代)、東胡は山戎などとともに燕の北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。 燕の将軍の秦開は、胡の人質となっていたが、胡の信頼を受けていた。そのため秦開は人質から帰還すると、東胡を襲撃して破り、千余里も燕から遠ざけることに成功した。 秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となる。 紀元前209年、東胡の隣国の匈奴で冒頓が父を殺し、単于の位を継いだ。これを聞いた東胡の王は冒頓に対し、先代の頭曼単于が持っていた「千里を走る馬」がほしいと要求。すると冒頓は東胡王に「千里を走る馬」を素直に贈った。東胡王は冒頓が自分らを恐れているのだと思い、しばらくして冒頓の閼氏(単于の妻)のひとりがほしいと要求した。するとまた、冒頓は自分の閼氏を素直に贈った。東胡王はいよいよつけあがり、匈奴の西方に侵入し、東胡と匈奴の間にある千里あまりも人が住まない棄て地を要求した。しかし、冒頓は「土地は国の根本だ」と言い激怒。そのまま東胡を襲撃し、匈奴を甘く見ていた東胡はなんの備えもしておらず敗北。東胡王は殺され、その人民と畜産を奪い去られ、ここに東胡は滅んだ。 その後、東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。『魏書』によれば、柔然も東胡の末裔だという。 東胡の言語系統について、古くは ツングース系[5]、或はモンゴル・ツングース混合系[6]、或は東胡の子孫である鮮卑の言語をテュルク系[7][8]、テュルク・モンゴル混合系とする説[9]があったが、いずれの説も支持されていない[10][11]。
名称
ある言語(東胡語)での民族名を漢文によって転写した。
胡(匈奴)の東にいるため[1]。
東にいる胡という意味[2]。
前史
歴史
沃沮粛慎
燕遼西郡遼東郡
秦遼西郡遼東郡
前漢遼西郡遼東郡衛氏朝鮮匈奴
漢四郡夫余
後漢遼西郡烏桓鮮卑?婁
遼東郡高句麗
玄菟郡
魏昌黎郡公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋平州
慕容部宇文部
前燕平州
前秦平州
後燕平州
北燕
北魏営州契丹庫莫奚室韋
東魏営州勿吉
北斉営州
北周営州
隋柳城郡靺鞨
燕郡
遼西郡
唐営州松漠都督府
五代十国営州契丹渤海国靺鞨
遼上京道 東丹女真
中京道定安
東京道
金東京路
上京路
東遼大真国
元遼陽行省
明遼東都司奴児干都指揮使司
建州女真海西女真野人女真
清満洲
東三省ロマノフ朝
中華民国
(東三省)ソ連
(極東)
満洲国
ソ連占領下の満洲
中華人民共和国
(中国東北部)ロシア連邦
(極東連邦管区/極東ロシア)北朝鮮
(薪島郡)
中国朝鮮関係史
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民族・言語系統