東海道五十三次_(浮世絵)
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東海道宿場の一覧については「東海道五十三次」をご覧ください。
図a.五十三次画帖での「一立齋広重画目録」。最初に「東海道五十三次風景つゝきゑ(続画)」とある。目録の左は「右追々出板仕候間不相替御求御高覧/奉希候/保永堂/〇に竹/江戸れいかんしま志保町本宅/同所南しん堀一丁目/みなと橋西かど売場/地本双紙錦画問屋竹内孫八板」。

『東海道五十三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ。東海道五拾三次とも)は、東海道宿駅を中心とした景観や習俗を描いた、浮世絵木版画である。名所絵が主となる場合が多いが、人物が主体で景観が従となるなど、さまざまである。形態としては揃物[注釈 1]、張交、双六、千社札、団扇絵、絵封筒、絵本などがある[2]。なお、画題に「東海道」「五十三次」を含むものをまとめて「東海道(もの)」や「五十三次(もの)」と呼ぶこともある[3]

代表的な作品としては天保5年(1834年)頃に保永堂から版行された歌川広重の「東海道五拾三次之内」があげられる[2][4]

ただし、浮世絵版画としては、版本「東海道名所記」(寛文年間(1661-1673))や菱川師宣の版本「東海道文間図会」(元禄3年<1690年>)から始まるとされる。喜多川歌麿は「美人一代五十三次」(享和年間 - 文化年間頃(1801-1808))、葛飾北斎は文化年間(1804-1818)に狂歌摺物「春興五十三駄之内」や「東海道五十三次 絵本駅路鈴」など7種の揃物が出ている。また、広重の師匠である歌川豊広も「東海道五十三次」を出している。広重の保永堂版東海道五十三次の成功により、その後は広重自身も含め多くの浮世絵師が東海道ものを出している[5][6]

本記事では、歌川広重による保永堂版五十三次55図(#版元)について述べ、それ以降に版行された広重による五十三次(#保永堂版以外の五十三次#五十三次図一覧)や、広重以外の五十三次についても触れる(#五十三次前史#広重以降の五十三次)。保永堂版制作に際し、広重は江戸京都を往復したとする説と、それを否定する説がある(#取材の有無)。
五十三次前史

最初期に東海道を描いた作例として、菱川師宣「東海道分間絵図」(図b.)が挙げられる。五十三次ものの連作としては、喜多川歌麿(図c.)、広重の師匠である歌川豊広(図d.)や葛飾北斎が描いている。後者には7揃いが確認されている(図e.)[7]。また文芸分野では、浅井了意の『東海道名所記』や十返舎一九東海道中膝栗毛』があげられる[8]

広重は歌川豊広に師事し、文政年間(1818-30年)には、役者絵美人画を描いていたが、文政年間半ばに入ると、名所絵の依頼を受けるようになり、「東都名所」(天保初期。川口屋正蔵版。図f.)[9]等を残した[10]

図b.東海道分間絵図 一。菱川師宣画。元禄3年(1690年)。版木屋七郎兵衛。 国立国会図書館蔵。

図c.喜多川歌麿「美人一代五十三次 沖津」

図d.歌川豊広、東海道 白須賀。享和3年(1803年)。和泉屋市兵衛アメリカ議会図書館蔵。#五十三次図一覧33.白須賀と参照。

図e.葛飾北斎、東海道五十三次絵本駅路鈴 池鯉鮒。文化3-7年(1806-10年)頃。伊勢屋利兵衛[11]。Fine Arts Museums of San Francisco(英語版)蔵 40.池鯉鮒と参照。

図f.広重、東都名所 芝浦汐干之図。天保初年。川口屋正蔵。 メトロポリタン美術館蔵。

保永堂版『東海道五拾三次之内』
版元

五十三次の版元は当初、仙鶴堂保永堂の合版だったが、のちに保永堂単独となった。なお、仙鶴堂単独版行もある(表1参照)[12]

表1.五十三次版元区分(#五十三次図一覧と対照のこと。)仙鶴堂・保永堂合版11図1.日本橋。2.品川。3.川崎。5.保土ヶ谷。6.戸塚。8.平塚。18.興津。21.丸子。23.藤枝。26.日坂。28.袋井。
仙鶴堂単独版行1図22.岡部。
保永堂単独版行43図上記以外。

保永堂が版元を興したのは、天保4年(1833年)とされる[13]。何故新興版元が大判大部の揃い物版行に関われたかには、三つの説がある[14][15][16]
主人の竹内孫八(筆名:眉山)が広重と狂歌仲間だったからとの説[15]

広重が仙鶴堂に五十三次版行を売り込んだものの、名の通っていない広重の版行を仙鶴堂側が乗り気になれず、保永堂を紹介した説[15]

保永堂の本業であった、質屋業務で仙鶴堂と取引があったとの説[17]

また、仙鶴堂が版行から降りた原因として、天保4年(1833年)に主人の鶴屋喜衛門が亡くなり、翌5年(1834年)に火災を受けていることを、鈴木重三が指摘する[18]

全図完結した時点で、画帖仕立てが上梓された。谷折り見開きの粘葉装で、上巻が27.掛川、もしくは29.見附で終わるものが記録されている[19]。造本を解体し、一葉(谷折りを伸ばして水平にしたもの)単位にした、表紙・扉題字・序文・広告奥付等が、貨幣・浮世絵ミュージアム日本浮世絵博物館等に所蔵される。


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