東海道中膝栗毛
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『東海道中膝栗毛』(太田宿中山道会館弥次さんと喜多さんの像
(京都・三条大橋).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年享和2年)から1814年文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九滑稽本である。「栗毛」は栗色の。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。

人気作品となり刊行は『東海道中膝栗毛』と『続膝栗毛』あわせて20編・21年間の長期に及んだ[1]。後世に読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある。

一般的には上記の『弥次喜多』あるいは『弥次喜多道中』の通称で親しまれている。
あらすじ

本作は、弥次喜多の旅行記の形式をとる。

江戸神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)は、妻と死別したり、仕事上の失敗から勤務先を解雇されるなど、それぞれの人生で思うにまかせぬ不運が続き、つまらぬ身の上に飽き果て、厄落としにお伊勢参りの旅に出ることを決意した。身上を整理して財産をふろしき包み一つにまとめ、旅立った二人は、東海道江戸から伊勢神宮へ、さらに京都大坂へとめぐる。続編ではは四国に行き、讃岐の金毘羅大権現 松尾寺を参詣し、中国地方に行き、宮島を見物し、そこから引き返して木曾街道を東に、善光寺を参詣し、草津温泉に行き、江戸に帰着する。2人は道中で、狂歌洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。
登場人物の紹介弥次郎兵衛(左)喜多八(右)
駿府城・2012年9月)
弥次郎兵衛(やじろべえ)
東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。屋号は「栃面屋」。肥えていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養の高い人物として描かれる。駿河国府中(現・静岡市)出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げし「借金は富士の山ほどある故に、そこで夜逃を駿河者かな」と身の上を詠んでいる。江戸では神田八丁堀の長屋密陀絵などを製作して生活していた。
喜多八(または北八)「きたはち」
出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に駆け落ちしてくる。ある商家に使用人として奉公したが、使い込みをした上に、女主人に言い寄ろうとして嫌われ、解雇されて行き場を失い、弥次さんとともに旅立つ。
経緯エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏(京の大仏)のスケッチ(大英博物館所蔵) [2]。東海道中膝栗毛では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写される場面があるが、そこで描かれているのは、東大寺大仏ではなく、方広寺大仏である [3]

一九は1795年寛政7年)から、職業作家として多くの黄表紙ほかを出していたが、まだ大ヒットはなかった。この滑稽本の初編は、1802年享和2年)正月に、村田屋治郎兵衛が出版した。一九が、挿絵を描き、版下の清書もするという安直さに、乗ったらしい。

名所・名物紹介に終始していた従来の紀行物と違い、旅先での失敗談や庶民の生活・文化を描いた本書は絶大な人気を博し、翌年に続編を出した。書名はそれぞれ『浮世道中 膝栗毛』『道中膝栗毛 後篇 乾坤』で、『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、つぎの第3編からであった。そして、『東海道中』シリーズは、1809年文化6年)の第8編(大阪見物)で一段落したが、1814年(文化11年)に、旅立ちの発端(はじまり)の編が、追いかけて出された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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