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東海村JCO臨界事故日付1999年9月30日 (1999-09-30)
時間午前10時35分 (JST)
場所 日本 茨城県那珂郡東海村
JCO東海事業所
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度28分47秒 東経140度33分13秒 / 北緯36.47972度 東経140.55361度 / 36.47972; 140.55361
東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オー(住友金属鉱山の子会社。以下「JCO」)の核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。 1999年9月30日、JCO東海事業所の核燃料加工施設内で核燃料を加工していた最中、ウラン溶液が臨界に達して核分裂連鎖反応が発生し、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で多量の中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出した[1]。 事故原因は核燃料の加工工程において、JCO側が事故防止を重視した正規のマニュアルではなく「裏マニュアル」を作成して作業を行うなどの杜撰な管理を行った上、事故前日より作業の効率化を図るためその「裏マニュアル」からも逸脱した手順で作業を行っていたためであった。事故後、法人としてのJCOと、JCO東海事業所所長を始めとした6人が起訴されて裁判で刑事責任を問われた他、JCOは内閣府から加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。 国際原子力事象評価尺度 (INES) でレベル4(事業所外への大きなリスクを伴わない)に相当する事故である[2]。 本事故の原因は、旧動燃が発注した「常陽」用核燃料の製造工程[注 3]における、JCOの杜撰な作業工程管理にあった。 JCOは燃料加工の工程において、臨界事故防止(臨界安全)を重視した正規のマニュアルではなく、「裏マニュアル」に沿って作業をしていた。一例を挙げると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用すると定められていたが、裏マニュアルではステンレス製のバケツを用いるという手順に改変されていた。しかも事故前日の9月29日からは、作業の効率化をはかるため、この裏マニュアルとも異なる手順で作業がなされていた。具体的には、濃度の異なる硝酸ウラニル溶液を混合して均一濃度の製品に仕上げる均質化工程において、「貯塔」という容器を使用するべきところを「沈殿槽」という別の容器を使用していた。貯塔は臨界に至りづらい形状(背が高く、内径が狭い)であったが、使用目的が異なる沈殿槽は非常に臨界に至りやすい構造(背が低く、内径が広く、冷却水ジャケットに包まれている)であった[1]。 その結果、濃縮度18.8 %の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線などの放射線が大量に放射された[1]。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員は「ウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と証言している[5]。 この事故では、3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント(GyEq)[注 4]以上の多量の放射線(中性子線)を浴びた。作業員は急性放射線症候群になり、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下「放医研」)へ救急搬送され、うち2名は造血幹細胞移植の関係から、東京大学医学部附属病院(東大病院)、および東京大学医科学研究所付属病院(東大医科研病院)に転院し、集中治療室での医療が施された。3名の治療経過や、本事故において被曝した者の経過は、それぞれ以下の通り。 被曝者被曝線量負傷詳細結果
概要
事故の推移
JCOでは1999年度に、高速増殖炉の研究炉「常陽」で使用される核燃料(濃縮度18.8 %[注 1]、ウラン濃度380 gU/リットル以下の硝酸ウラニル溶液、約160リットル)の製造を請け負っていた[3]。
1999年9月、まずウランの精製作業が中旬から28日まで行われ、翌29日より硝酸ウラニル溶液の均一化作業が始まった。
9月30日、転換試験棟にてJCOの作業員たちが、硝酸ウラニル溶液を沈殿槽にバケツで流し込む作業を行っていた。午前10時35分ごろ、7杯目をバケツで流し込んだところ、沈殿槽内で硝酸ウラニル溶液が臨界となり、警報が鳴動した[4]。沈殿槽は言わば「むき出しの原子炉」の状態となり、短時間の被曝で致死量に達する猛烈な中性子線が発生し、建物内部だけにとどまらず事業所の敷地外にまで拡散した[5]。
同11時15分、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁に入る[6]。しかしJCOは消防に対する通報では原子力事故である旨を伝えなかったため、出動した救急隊員はそのような認識をもたず救助活動を行い、放射線被曝することになった[7]。
11時52分、被曝した作業員3名を乗せた救急車が国立水戸病院(現・国立病院機構水戸医療センター)へと出発した[6]。
当時、核物質加工施設における臨界事故については想定されておらず、核物質加工施設を対象とした防災計画も策定されていなかった。そのためJCOの施設境界近傍にはモニタリングポスト
午後12時40分ごろ、内閣総理大臣・小渕恵三(当時)に、事故の第一報が報告され[6]その後、小渕総理がテレビで周辺住民に対し「外出しないように」と呼びかけを行った[10]。また、この事故を受けて小渕内閣は翌10月1日に予定されていた内閣改造を延期、10月5日に改造を行った。
JCOのわずか400 m北側には常磐自動車道の東海パーキングエリアがあり、ここの利用者も放射線被曝の危険にさらされていた。行楽シーズンの昼間であり、常磐自動車道を閉鎖するまでには大勢の観光客が出入りしていた。
9月30日夕方、日本原子力研究所(原研、現:日本原子力研究開発機構)東海研究所の中に国の現地対策本部が置かれた。本来、原研は場所を貸すだけの立場だったが、その対策本部には誰もこの事態に対応できるだけの知識を有する者が居なかったため、やむなく当時 原研の東海研究所長だった斎藤伸三が事故対応の指揮を執ることになった[11]。
現地では事故現場から半径350 m以内の住民約40世帯への避難要請、500 m以内の住民への避難勧告、10 km以内の住民10万世帯(約31万人)への屋内退避(10 km圏内の屋内退避要請の発表は20時30分頃、その要請が解除されたのは翌10月1日の16時30分頃であった。)および換気設備停止の呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線・水戸 - 日立間、水郡線本線・水戸 - 常陸大子間、水郡線常陸太田支線・上菅谷 - 常陸太田間の運休、自衛隊への災害派遣要請[注 2]といった措置がとられた。
一方、国の現地対策本部ではタンクの冷却水を抜く方策の検討に入っていた。臨界事故の現場は極めて高い放射線量であり、生きた人間が接近するのは極めて危険な状態である。「自衛隊が遠くから沈殿槽を射撃できないだろうか」との案も出たが、最終的には冷却水の配管を人力で破壊する案が採用された[11]。
10月1日未明、冷却水の配管切断作業がようやく始まる。JCO幹部や従業員は放射線被曝の恐怖から何度も作業に消極的になり、誰も臨界事故を収束させようとする作業をしなかったが、現場に派遣された原子力安全委員会委員長代理の住田健二が、「私には命令権はないが、…やる気がないのであれば関係各方面に連絡して強権を発動して命令することになる。ただし、そうなれば…時間がかかるが、そんなことをやってよいのだろうか」と促した[13]。
その結果「うちが起こした事故は、うちで処理しなければならない」と、選抜されたJCO社員18人が2人1組で3分を限度に現場に向かうこととなった。まず1組目が臨界事故の現場に向かったが作業するためにJCOから貰った図面と現場の沈殿槽の位置が異なっており(図面では沈殿槽は壁から約1 m 離れた位置にあったが、実際は約30 cmしか離れていない位置にあった)直ぐに帰還アラートが鳴ったため確認したところ、計測された線量が当初の予定の2倍になっていた。計画では3分間で交替する予定だったが、これを受けて作業時間の限度を1分間に短縮して次の2組目以降が順次、臨界事故現場に向かい、冷却管の破壊、アルゴンガスを注入して冷却水を抜く、ホウ酸を沈殿槽に投入する、といった作業を行ったところ、急速に線量が低下[11]。連鎖反応を止めることに成功し、臨界は収束した。
中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った10月1日の朝6時30分ごろであった[6]。
現地対策本部で臨界事故収束の指揮を執った原研の斎藤伸三に対策本部員としての肩書が与えられたのは、事故が収束してから数日経ってからのことだった。それまでは対応を指揮した「部外者」という扱いだった[11]。
事故原因
事故被曝者
作業員A(35歳)16 - 20 GyEq高線量被曝及び染色体破壊、一時心臓停止による多臓器不全1999年12月21日・23時21分死亡
作業員B(39歳)6.0 - 10 GyEq高線量被曝及び染色体破壊、MRSA感染による肺炎、多臓器不全2000年4月27日・7時25分死亡
作業員C(54歳)1 - 4.5 GyEq高線量被曝治療により回復、1999年12月20日退院
16 - 20 GyEq(推定16 - 20シーベルト以上[2])の放射線被曝をした[15]作業員A(当時35歳)は、高線量被曝による染色体破壊により、それにより新たな細胞が生成できない状態となる。まず白血球が低下し易感染状態になったためICUから無菌病室に移動し、実妹から提供された造血幹細胞の移植が行われた。幹細胞移植は成功し白血球の増加が見られたが、時間経過とともに定着した妹由来の造血細胞にも染色体異常が発見され、白血球数が再び減少に転じた。1日3リットルの下痢が始まりやがて血便となり大量の輸血が行われた。放射線障害により皮膚が形成されなくなり全身の皮膚が剥離。体液の漏出が止まらなくなり、毎日全身を覆うガーゼの交換を半日かけて行う状態となった。呼吸困難も出現し気管挿管の上、人工呼吸器に接続された。麻薬を使った疼痛管理が行われたが苦痛を取り除くには十分ではなかった。事故から59日後の11月27日心停止。蘇生措置により約1時間後に心拍再開したものの、長時間の心停止によるダメージから脳および各臓器の機能が著しく低下した。事故から83日後の1999年(平成11年)12月21日23時21分、放射線障害による多臓器不全で死亡した。
6.0 - 10 GyEq(推定6 - 10シーベルト[2])の放射線被曝をした[15]作業員B(事故当時39歳、死亡時40歳)も作業員Aと同様に高線量被曝による染色体破壊を受け、造血幹細胞の移植が一定の成果をあげたことにより、一時は警察の事情聴取に応じるまでに回復した。