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東海大学硬式野球部加盟団体首都大学野球連盟
本拠地神奈川県平塚市土屋2223
創部1962年
監督長谷川国利
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績優勝 75回
全日本大学野球選手権大会
最高成績優勝 4回
明治神宮野球大会
最高成績優勝 3回
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東海大学硬式野球部(とうかいだいがくこうしきやきゅうぶ、英: TOKAI University Baseball Team)は、首都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。東海大学の学生によって構成されている。
創部が望まれています。
1962年野球同好会発足。1964年に部に昇格し、創部年としている。 1964年(昭和39年)創部。当初は東都大学野球連盟に準加盟していたが、他の加盟校・準加盟校に呼びかけて首都大学野球連盟発足を主導した。以来、首都大学野球リーグ戦で75回(2023年秋季終了時点)という圧倒的な優勝数を誇り、リーグ発足の中心を担ったことと合わせ「首都の盟主」とも呼ばれる。2024年現在まで、首都大学野球リーグでは常勝チームであり、のみならず大学球界の覇を競う存在として認知されている。 同1964年(昭和39年)秋に初開催されたリーグ戦から6季連続で優勝を果たす。翌1965年(昭和40年)春、前年64年の首都大学野球連盟発足後、連盟代表校として初出場となる第14回全日本大学野球選手権大会準決勝で、優勝した専修大の1年生エース芝池博明に完全試合を達成されてしまう。翌1966年(昭和41年)、4年松永利朗投手(通算11勝0敗)らを擁し、第15回全日本大学選手権2回戦(準々決勝)で立教大を下し勝ち上がってきた神奈川大に0-3で敗退。翌1967年(昭和42年)、渡辺孝博(69年卒、通算26勝3敗)と杉山孝夫(69年卒、通算12勝3敗)ら3年生や2年上田次朗(70年卒、通算39勝〈日体大西谷美次が並びリーグ歴代1位〉5敗)らの投手陣を擁して、第16回全日本大学選手権では神奈川大、関西大をそれぞれ2-1で下したものの、準決勝で優勝した中央大に2-8で敗退した。 翌1968年(昭和43年)秋、明治維新百年記念明治神宮野球大会で、東海大4年渡辺孝博や3年上田次朗らの投手陣擁する首都大学選抜が、準決勝で池田善吾投手擁する東都大学選抜、決勝で田淵幸一や星野仙一投手擁する東京六大学選抜を下し優勝。東海大学のみならず首都大学野球リーグの名を高めた。 翌1969年(昭和44年)春、第18回全日本大学野球選手権大会では2回戦で明治大を5-4、準決勝で神奈川大を5-0で下し進出した決勝戦で、エース上田次朗を擁して佐藤道郎投手擁する日本大相手に、3年谷口剛が9回表に佐藤から決勝本塁打を放ち3?0で優勝。東京六大学、東都大学、関西大学野球連合(旧関西六大学)以外の加盟校で初優勝を遂げた。翌1970年(昭和45年)秋、記念すべき第1回明治神宮野球大会でも、3年川端理史投手(72年卒、通算21勝5敗)や主将で4年谷口剛に林田俊雄、3年相本和則らの投打を擁して準決勝で2年山口高志投手擁する関西大を完封、決勝で中京大を下し優勝。明治神宮野球大会の初代王者となる。 しかし1970年代に入ると、隔季毎秋間隔でリーグ戦で優勝するものの、秋の明治神宮大会の舞台では予選敗退に終わり、春は明治学院大(70年・74年)、帝京大(71年)、大東文化大(72年)、日本体育大(73年)に優勝をさらわれ、1970年から1974年(昭和49年)まで春の全日本大学野球選手権大会には出場できなかった。その間、1972年(昭和47年)秋の第3回明治神宮野球大会1回戦で中央大の1年生投手田村政雄にノーヒットノーランを喫する。この時代は、前述の川端や相本のほか垣野多鶴らが在籍した。 1975年(昭和50年)、4年有村謙一(76年卒、通算10勝7敗)や3年吉田恭之(77年卒、通算20勝5敗)、2年遠藤一彦(78年卒、通算28勝5敗)らの投手陣を擁して69年春以来6年ぶりの春季リーグ優勝を果たすも、続く第24回全日本大学野球選手権大会1回戦で札幌大に敗退(優勝は駒澤大、準優勝は大阪商業大)。同年秋は日体大がリーグ優勝。翌1976年(昭和51年)、4年吉田恭之と3年遠藤一彦両投手らの活躍でリーグ戦春秋連覇。第25回全日本大学野球選手権大会では、東海大は森繁和と大宮龍男の4年生バッテリー擁する駒澤大に敗れていたが、当時採用されていた敗者復活戦で法政大と駒澤大を完封し決勝戦に勝ち上がり、既に法政と駒澤を下し決勝戦に進出していた、後年大洋ホエールズで遠藤と両輪となる4年斉藤明雄投手擁する大阪商大を2-1で降し、69年の第18回大会以来の優勝を果たした。同年秋、72年以来の出場となる第7回明治神宮野球大会では初戦2回戦で早稲田大に5-8で敗退。翌1977年(昭和52年)、遠藤と林良孝(通算13勝1敗、本田技研鈴鹿)両投手や石井昭男ら4年生の投打を擁して、第26回全日本大学野球選手権大会準決勝で法政を破り勝ち上がってきた愛知工業大を2-0で下し進出した決勝戦で、4年尾藤福繁投手や3年石毛宏典擁する駒大に延長10回の末3-4で惜敗し準優勝。同年秋の第8回明治神宮野球大会では準決勝で駒大を破り、決勝で遠藤らと共に最上級生となる江川卓投手擁する法政と対戦。1年原辰徳が江川から本塁打を放つものの3-5で投げ負けて準優勝に終わった。 翌1978年(昭和53年)3月、東海大創立者松前重義の提唱で、前年77年の全日本大学選手権と明治神宮大会の準優勝校・東海大学野球部と、全米大学選手権優勝校・アリゾナ州立大学野球部が「大学野球太平洋シリーズ アリゾナ州立大学対東海大学」と称し日米親善試合を行い、東海大の0勝4敗1分で終わった[1]。 原辰徳、津末英明、市川和正、村中秀人、赤山正己投手(81年卒、通算12勝5敗)に、彼らの1学年上の木下智裕投手(80年卒、通算17勝0敗)、1学年下の井辺康二投手(82年卒、通算22勝3敗)、青山道雄、伊藤寿文らが在籍した1978年(昭和53年)から1980年(昭和55年)の春までは、毎季のようにリーグ戦で優勝しリーグ戦9連覇までするものの、全国の舞台では大学選手権予選で明治大や早稲田大、神宮大会の準決勝戦で東洋大や名城大の前に敗退し、大学日本一に達することができなかった。
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