東海・東南海・南海地震
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この項目では、南海トラフで発生が予測される地震の内、東南海、南海地震等に関する専門調査会による検討部分(2003年)について説明しています。2011年に設置された南海トラフの巨大地震モデル検討会による検討部分については「南海トラフ巨大地震」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}主要カテゴリ > 地震 > 連動型地震 > 東海・東南海・南海地震

東海・東南海・南海地震(とうかい・とうなんかい・なんかいじしん)は、想定東海地震東南海地震南海地震が同時発生するという仮定の下で想定された南海トラフにおける連動型巨大地震のことである。三連動大地震とも三連動大震災とも呼ばれる。

想定東海地震は駿河湾、東南海地震は遠州灘沖および熊野灘沖(浜名湖沖から潮岬やや東寄り沖)、南海地震は紀伊水道沖および土佐湾沖(潮岬やや東寄り沖から足摺岬沖)が、それぞれ震源域と想定されていた。このように震源域が分かれる要因は、海底の地形、沈み込んだプレートの傾斜角、トラフ軸の向きなどが関係しているとされる[1]
概要

駿河湾から九州にかけての太平洋沿岸では、フィリピン海プレートユーラシアプレートとの収束境界、すなわち沈み込み帯である南海トラフでは、過去に100 - 150年程度の間隔で巨大地震が繰り返されていると考えられていた。

1944年昭和東南海地震および1946年昭和南海地震から既に50数年の年月が経過した2001年の時点では、昭和の2地震の規模が比較的小さかったことなどから21世紀の前半にも、南海トラフを震源とする巨大地震の発生が懸念されていた。

そこで2001年6月の中央防災会議において、中部圏、近畿圏等における災害対策の強化、地震・津波被害の想定や災害対策のあり方を検討する「東南海、南海地震等に関する専門調査会」の設置が決定された[2]

また、1970年代から発生の可能性が唱えられていた駿河湾を震源域とする東海地震がこの時点でまだ発生していないことから、次回の東南海・南海地震と連動して発生する可能性も否定できないとされ、当時の最大級の地震の想定として、これらの3つの震源域が連動する「想定東海地震、東南海地震、南海地震の震源域が同時に破壊される場合」すなわち東海・東南海・南海地震が想定された[2][3]
過去の歴史地震との関係

1707年宝永地震は、震度分布や津波襲来の領域から1854年安政東海地震(想定東海地震と東南海地震が震源域と推定)および安政南海地震の震源域を併せたものにほぼ相当するという考えから、東海道沖および南海道沖で2つの地震がほぼ同時に発生したものと推定されていた[4][5]

また、昭和東南海地震では、安政東海地震で断層破壊された駿河トラフ部分が未破壊のまま残され、この部分が将来断層破壊する東海地震が想定された[2][6]

このような経緯から、東海地震・東南海地震・南海地震の震源域が仮定され、比較的史料が揃っている宝永、安政、昭和の過去の5地震をモデルに、それぞれの震源域が単独、あるいは同時発生する場合が想定された[2][7]

過去の5地震の震源域(従来の見解)

1707年10月28日(宝永4年10月4日宝永地震(東海 東南海 南海連動) M8.6

1854年12月23日(嘉永7年11月4日安政東海地震(東海 東南海連動) M8.4

1854年12月24日(嘉永7年11月5日安政南海地震(南海地震) M8.4

1944年(昭和19年)12月7日 昭和東南海地震(東南海地震) M7.9

1946年(昭和21年)12月21日 昭和南海地震(南海地震) M8.0

南海トラフ沿いで歴史的に発生している巨大地震の詳細については、「南海トラフ巨大地震」を参照のこと。
3連動地震

3連動地震と考えられてきたものは、1707年の宝永地震であり[7][8]、大規模な津波堆積物が見いだされている天武13年(684年)の白鳳地震正平16年(1361年)の正平地震も宝永型の可能性があるとされ[9]、記録から仁和3年(887年)の仁和地震も可能性が高いとされてきた[10]慶長9年(1605年)の慶長地震も津波波源域が東海から南海に及ぶとされ[11]、房総沖も連動したとする説もある[12]が、その他東海道はるか沖を震源とするなど諸説あり[13]、南海トラフの地震ではないとする見解も出されている[14]

しかしながら、仁和地震は、静岡県磐田市の太田川沿いの元島遺跡から発見された9世紀後半頃の津波堆積物の規模が小さいことから3連動地震の可能性は低いとされ[15][16]、さらに仁和地震に相当する津波堆積物は南海側では見出されず、正平地震に相当する津波堆積物も東海側では見出されていない[17]

また、宝永地震については駿河湾が震源域に含まれる[18]、含まれない[19]との論争があった一方で、日向灘地震の震源域まで伸びていた可能性が指摘され[20]、また安政の2地震の同時発生では説明できず、単なる3連動地震ではない別物の巨大地震との説も浮上している[21]

その後の研究により、地震が起こるたびに震源域が変化するという、従来の東海・東南海・南海の枠に捕われない見解が出されるようになった。例えば、同じ南海地震でも安政の南海地震は南海道沖全域が震源域となったのに対して、昭和の南海地震は西側4分の1は震源域ではなかったと推定されている[22]。また一方で東京大学地震研究所の瀬野徹三(2011)は、3地震の現在の分類を変える必要を挙げ、南海トラフの東端の震源域(東南海の一部及び東海)と連動して静岡付近まで断層の破壊が進む「安政型」、その震源域と連動せず静岡までは断層の破壊が起きない「宝永型」の二種類に分類することができるという説を唱えている[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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