東洋英和女学院中学部・高等部
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東洋英和女学院中学部・高等部

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国公私立の別私立学校
設置者学校法人東洋英和女学院
設立年月日1884年明治17年)
共学・別学女子校
中高一貫教育完全一貫制
課程全日制課程
単位制・学年制学年制
設置学科普通科
学期2学期制
学校コードC113310300099 (中学校)
D113310300140 (高等学校)
高校コード13535G
所在地106-8507
東京都港区六本木5-14-40
外部リンク東洋英和女学院 中学部・高等部
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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東洋英和女学院中学部・高等部(とうようえいわじょがくいんちゅうがくぶ・こうとうぶ)は、東京都港区六本木五丁目に所在するミッション系私立女子中学校高等学校。高等学校からの募集を行わない完全中高一貫校

教派はキリスト教プロテスタント[1]
概要

東洋英和女学院は、外国人居留地以外に外国人が住むことができなかった時代に居留地以外でミッションスクールとして設立することができた学校である。1884年明治17年)、カナダ・メソジスト教会(現:カナダ合同教会)の日本派遣婦人宣教師マーサ・カートメルにより日本女性の自立・地位向上を目指して設立された。

設立当初から西洋人教師による英語教育、欧米の新しい文化や学問が学べる場として、授業料が高額であったのにもかかわらず、進歩的指導的階層に属する人々から高く評価され、多くの入学者を集めた[2]

1928年(昭和3年)に、本学院の建学の精神を表す標語として、「敬神奉仕」が掲げられた。

学年は、東洋英和女学院小学部からの入学者約80名と中学入試を経て入学する約120名、計200名からなる。

東洋英和女学院大学への推薦制度があるが進学者は数名程度である[3]

キリスト教プロテスタントの教育を行うが[1]、入学および教員の着任に際してクリスチャンであることは求められない[4]
教育の理念
学院標語
「敬神奉仕」
1928年(昭和3年)、F・G・ハミルトンが校長の時、広く在校生・同窓生から募集し、慎重な協議の結果制定された。「敬神」-「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコによる福音書12章30節)「奉仕」-「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコによる福音書12章31節)
創立者の教え

創立者マーサ・カートメルは、「誰かのために、まず、私から始めましょう。」と唱えた[5]

キリスト教(プロテスタント)の信仰と、聖書の言葉を土台にして、 一人ひとりが神から委ねられた使命(ミッション)を自覚し、喜んで神と人のために奉仕する愛の精神を育むことを使命としている[1]
教育目標

聖書の教えである「神から愛されて存在する私たちだからこそ、神を敬い、互いに愛し合い、隣人のために尽くさねばならない」を柱に、心と知性を養い、自分の将来の夢を実現し、他者のために自分を生かす女性を育てることを教育目標としている[6]
沿革

カナダ・メソジスト教会から派遣された婦人宣教師マーサ・ジュリア・カートメルは、1882年、多くの困難を乗り越えて来日した[1]。築地居留地四、五番に居住し、まず日本語を習得し、また聖書を教え伝えた[2][7]

1873年に来日したカナダ・メソジスト教会の宣教師G・コクラン博士と医療宣教師D・マクドナルドは、1883年、男子学校を設立するために麻布鳥居坂13番地の土地を購入することを決定し[2]、その土地の一部を婦人伝道会に学校設立のために譲ることをカートメルに助言した[8]

カートメルはこの助言に従い麻布に日本の女子学校を設立することを決意した。文部省に設立の許可を求めたが、当時の明治政府は外国人居留地以外に外国人が住むことを認めず、外国人名義での出願はできなかった。そこで、男女それぞれの学校設立のための会社「東洋英和[注 1]学校会社」「東洋英和女学校会社」を創設し、ともに会社の社長小林光泰の名前で出願するという方法がとられた[2]

東京府に提出された学校の「設置願い」によれば、定員50名のところ、校長と教員4名、生徒2名と書かれている[2]。その後生徒数は増加し、1886年には定員250名に変更するに至る[2]

男子学校の方は「東洋英和学校」として校舎と寄宿舎が建設され、コクランは東洋英和学校初代校長となる。1895年(明治28年)7月、江原素六により、キリスト教の精神を基底に持ちながらも、布教活動とは一線を画した中等教育を目指した、東洋英和学校内尋常中学部が創立される。1900年(明治33年)3月、東洋英和学校は閉鎖となり[8]、現在の麻布中学校・高等学校へと継承された。

戦時中は敵国を表す「英」を「永」に変更する措置が採られたが、1946年(昭和21年)に元に戻されている。
年表

1884年明治17年) - 「東洋英和女学校」として設立。

1888年 - 幼稚科(小学部の前身)設置。

1905年 - 短大保育科前身を開設。

1914年 - 「東洋英和女学校付属幼稚園」設立。

1919年 - 「東洋英和女学校付属保姆養成所」開設。

1927年 - 校章、制服を制定。


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