東洋社会党
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日本政党東洋社会党
成立年月日1882年5月25日
解散年月日1882年6月20日[1]
解散理由結社禁止[2]
本部所在地佐賀県西松浦郡[3]
党員・党友数3,000人[1]
政治的思想・立場平等主義[1][4][5]
空想的社会主義[3]
機関紙『半鐘警報』[1][2]
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東洋社会党(とうようしゃかいとう、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:東洋社󠄁會黨[6])は、1882年5月25日樽井藤吉と赤松泰助らによって長崎県島原において設立した政党[3]。機関紙は『半鐘警報』。日本で初めて「社会党」の名を冠した政党[2][7]

樽井自身は国学の影響を受けたアジア主義者であったが、道徳の確立と自主平等を主義として、社会公衆の最大福利を目的として、財産の均等化などを掲げた。党員は数名であったが、本拠地を松浦郡に移すと地元農民を中心に3,000人の支持者を集めた。この動向に明治政府は警戒を強め、翌月には共産主義革命を企てた容疑で解散を命じられる。だが、樽井がこれに応じなかったために、翌1883年1月に樽井は集会条例違反で禁錮刑とされて強制的に解散させられた。
沿革
結成まで樽井藤吉

樽井は1874年に岩倉具視に社会主義的な政策の提言をするが受け入れられず、西南戦争で西郷側に立つも敗北して潜行したのち、無人島に理想の村をつくろうと植民に取り組むも失敗するなどしていた[8][9]。長崎に転じた際、外国帰りの人物から、樽井の主張は西洋の「社会主義」に近いと教えられ、以降「東洋社会党」の結成を模索するようになった[9]。社会主義の具体的行動方針については樽井の手に余るものであり、武富時敏に助言を乞い、スペンサーの説や優生学を取り入れた[8][8]

1882年3月2日、『錦江新誌』号外(創刊準備号の意)が発行された[10]。樽井はこれに1月に長崎で行った演説の書き起こしとして「東洋の虚無党」と題する文章を掲げ、「虚無党の発生は圧制政治に原因がある」と主張した[10]。ここにおいて樽井は、東洋の虚無党は老荘思想などに由来し、西洋の虚無主義と本質は変わらないが政府に対抗するようなことはなかったこと、西洋虚無党の「逆族」を未然に排除するためには別の思想で対抗しなければならないことを主張した[11]。ここにはカール・マルクスについて「孛国の一学士」としか出ておらず、社会主義を志向する樽井にすら未だマルクスの論が伝わっていないことがわかる[12]

1882年(明治2年)、樽井は東洋社会党の結成に着手する。4月18日に赤松ら数名の同志とともに準備会を開き[10]、5月25日島原江東寺(十善寺とも)にて東洋社会党第一部第一同盟会が開かれ、樽井を発起人として「東洋社会党」が正式に発足した[13][10][14][15]。党名は「立憲急進党」「突飛党」などの案が挙がったが、結局「東洋社会党」となった[13]。これは、日本で初めて「社会党」の名を冠した政党である[16]

その党則には、道徳を行動規範とし、「自他平等」と「社会公衆の最大福利」を目的と謳った[16][14]。「東洋」の名には、西洋の社会主義政党とは異なる「親和」の党であるという意味が込められている[16]

第一章 我黨は道コを以て言行の基準とす

第二章 我黨は平等を以て主義となす第三章 我黨は社會公衆の最大福利を以て目的とす[17]

党の中心活動家は樽井のほか家永芳彦(長崎改進党員 のちに代議士)、横田寅彦(大阪の代言人 後に代議士)、島原の士族の平野新八郎で、財政は奈良の木材商土倉庄三郎がパトロンとなった[18]

佐賀県西松浦郡を拠点とした[14]。西松浦の農民らは佐賀藩主であった鍋島閑叟の徳政的土地改革制度の継続を要求して運動を開始しており、樽井も鍋島の善政を社会主義の嚆矢と位置付けその旧領を重心的に扇動し東洋社会党は農民の支持を集めた[10][8][14]。3000余名を獲得し、そのほとんどは農民であった[16][14]。島原のほかには、新潟県において赤川小一郎という党員(詳細不明の人物で、田中惣五郎鈴木正は赤松泰助と同一人物と推測している)が宣伝活動を行い農民にある程度の影響力があった[18]

5月、渡辺政貴らは鍋島閑叟の廟に「仁祖」の扁額を掲げ、その横に「財産の公平を推し進めた遺徳を慕う」という旨の看板を立てた[18]。この時朝野新聞は、貧農は鍋島閑叟を社会党の元祖であるとして崇敬しており、肥前中に東洋社会党の党勢が広がる日も遠くないと報じている[15]。渡辺ら活動家は島原における小作争議にある程度関与していたと推測されている[18]。渡辺らが天物共有思想を浸透させた[14]。このことは社会主義政党とみなされる布石となる[14]。6月には機関誌「半鐘警報」の発行を開始した[15]
弾圧と消滅

東洋社会党の結成が知られると、論壇では賛否両論が行きかった。福地源一郎や村上浩は、西洋の社会党の害毒が日本に及んだとしてはげしく非難した[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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