この項目では、1896年から1960年まで存在した企業について説明しています。1974年創業の「東洋汽船株式会社」については「リベラ (海運業)」をご覧ください。
東洋汽船ポスター 英語
東洋汽船(とうようきせん)は1896年(明治29年)から1960年(昭和35年)まで存続した、浅野財閥[1]・安田財閥系[2] の日本の海運会社である。 日本の近代からの船舶史、特に客船史を語る上では日本郵船、大阪商船(現・商船三井)と並んで避けて語ることが出来ない船会社であり[3]、創業者・浅野総一郎(浅野財閥創始者)の企業家精神[4] や夢[5] をサンフランシスコ航路開設や日本で最初の1万トンを越える大型船の建造などという形で具現化したが、やがて世界情勢の変遷などにより経営が苦境に陥り、日本郵船に客船部門を譲渡した後は貨物船専業の船会社となる。太平洋戦争を経て、1964年(昭和39年)の海運集約
概要
ファンネルマークは橙一色であり、頂部は黒[6]。社旗は「紫色の地に日の丸の扇子」だった[5]。扇子は浅野総一郎の家紋に由来する。
東京の三田に、浅野総一郎の屋敷があったが、その敷地に、金の鯱を戴く城の天守閣のような純日本風の建物紫雲閣が聳えていた。浅野総一郎は、東洋汽船の一等船室外国人客全員を紫雲閣に招待して、浅野一族の娘・孫娘・嫁など総勢20?30人でもてなした。合計で13万人ぐらいの外国人を招待したので、外国では「浅野の茶会」として有名だと浅野総一郎自らが述べている[7]。
沿革
創業期(浅野廻漕部[8])である[4]。浅野廻漕店は浅野総一郎が渋沢栄一や渋沢喜作らとともにロシアから汽船「ベロナ」を購入して「日の出丸」と命名し、石炭を輸送することを生業としていた[4][8]。やがて持ち船を増やし、日本郵船に対抗する意味合いをもって他の小規模船会社とともに海運同盟会を結成[8]。日清戦争直前の1893年(明治26年)頃には、帆船なども含めると8万総トンもの船腹を有する規模にまで発展し[4]、日清戦争では何隻かの持ち船を日本軍御用船として提供していた[8]。折りしも、日清戦争終結後の1896年(明治29年)に航海奨励法と造船奨励法が施行される[9]。日本船が海外航路に就航する際や、新造船建造の際に一定の補助金を出すという、この二つの法律の施行を契機として、日本の船会社は相前後して海外へと打って出る事となる[10]。
日本郵船は法律の施行に先んじて1893年(明治26年)に、日本の船会社初の本格的遠洋定期航路[注釈 1] としてボンベイ航路を開設[10]。法律施行後にはヨーロッパ航路、シアトル航路、豪州航路を相次いで開設した[10]。大阪商船も明治29年、日本の領土となったばかりの台湾への命令航路の運営を受命し、会社規模の拡大を開始する[11]。無論、浅野総一郎はこういったライバル船会社の動向に無関心だったわけではない。国内同業者との日本国内での競争に胡坐をかいて満足するようなことはなく、明治29年に今までの持ち船を土佐汽船に譲渡して浅野廻漕店を解散する[8]。そして同じ明治29年6月2日[3] あるいは7月1日[12] に渋沢栄一(渋沢財閥)に加えて安田善次郎(安田財閥)、福澤桃介、大倉喜八郎(大倉財閥)、6代目森村市左衛門らから650万円(当時)の出資を受けて東洋汽船株式会社を設立する[3]。東洋汽船ポスター 中国語