東洋学
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東洋学(とうようがく、: Oriental Studies, Orientalics、: Orientalistik)は、「東洋」と呼ばれる諸国・諸地域を対象とする学問研究史学の総称。古代オリエント学中国学インド学などを分野とする(#東洋学の諸分野)。東方学、アジア学とも呼称される。ロゼッタ石、碑面に刻まれた古代文字の解読が西洋における東洋学の成立につながった。現在、イギリスが所蔵し、エジプトは返還を求めているマルコ・ポーロの旅行記『世界の記述』 / 中世末期以降、東洋に対する西欧人の憧れを刺激したナポレオンのエジプト遠征 / 戦争に並行して学術調査が行われ、エジプト学の誕生につながったシャンポリオン:古代文字の解読により「エジプト学の父」と呼ばれるW・ジョーンズ:インド学の創設者でありヨーロッパ諸語とインドの言語との類似を指摘した
概要

「東洋学」はオリエント学の訳語とされ、中国において「東洋」とは「東の海」という意味から主に日本を指し、「東」を表す「東方」という言葉を用いた「東方学」(Eastern Studies)とも称される。「東洋」に対する見聞・知識・情報の蓄積は近代以前からみられるが、それが東洋学という独立した分野のもとで一括して制度化されるようになったのは18世紀後半から19世紀にかけての時期であり、そういう意味で東洋学は、きわめて近代的性格を持つ学問であるといえる。

なお、東洋学の原語の一つとされる「オリエンタリズム」は、近年カルチュラル・スタディーズもしくはポストコロニアル研究において異なる意味をもって使用されており(本来の意味は「オリエント学」もしくは「オリエント(東方)趣味」である)、注意を要する。またこれに関連して「オリエンタリスト」は本来「東洋学者」を意味する言葉であるが、ポストコロニアル理論上の「オリエンタリズム」の語が流通するに従い「オリエンタリズムを流通させている人物(学者・言論人)」という(批判的な)意味あいを帯びてきている(もちろんかつての東洋学者にはオリエンタリズム的傾向の強い人物が多いため「東洋学者≒オリエンタリスト」であって、この2つの用法を区別して用いるのはある意味困難さがある)。
対象領域

以下に述べる通り東洋学の対象とする領域はそれほど自明ではなく、地理的範囲と時期的範囲の問題がある。
地理的範囲

日本において漢語の「東洋」が意味するところは、西洋以外の地域であり、しばしば地理学でいうアジア(アジア洲)と同一視されている(しかし本来中国で「東洋」の語が意味していたのは、中国から見た東洋、すなわち日本などの近隣地域である)。一方「東洋」の原語とされる「オリエント」は、古来ヨーロッパから見た「東方」諸地域を意味するのであり、古典古代においては東方とみなされたエジプト西アジアなどが「オリエント」の内容(エジプトは含まれないという見解もある)であり、さらにその後ヨーロッパ人の地理的視野が拡大するにつれ、次第により拡張されてゆき、今日ではアジア全域および(エジプトの外延部を含む)北アフリカが「オリエント」の語が表す意味である。例えば古い歴史を持つロンドン大学の「オリエント学(東洋学)学校」(School of Oriental Studies) や1873年パリで第1回大会が開催された「国際オリエント学会議」(International Congress of Orientalists) でいう「オリエント」とは上記のような意味内容であり、当然そのなかには日本も含まれる(現在では指示する地域があまりに拡大しすぎたことを理由に、前者は「東洋アフリカ学学校」(School of Oriental and African Studies)、後者は「国際アジア・北アフリカ人文科学会議」(International Congress of Human Sciences in Asia and North Afirica) と改称されている)。したがって「オリエント」は、必ずしも日本でいう「東洋」とは完全に重なり合わない。また翻訳によるギャップも存在する。日本で「オリエント」が意味するのは、欧米でいう広範な地理概念ではなく、先述したメソポタミア・エジプトなど、古代の地中海ヨーロッパの人々がオリエントと称した諸地域に限定されているのが一般的である(つまり日本語でのオリエントは歴史的地域の概念である)。また先述の通り欧米の東洋学(=オリエント学)には、近東地域を対象とした狭義の「オリエント学」(古代オリエント学)、インド学中国学と並んで日本学も含まれる(欧米の東洋学において日本学は重要な領域である)が、日本の東洋学には日本学は含まれない。
時期的範囲

東洋学(もしくはオリエント学)が対象とするのは、東洋(オリエント)における言語・文学・宗教・思想・芸術などの文化の歴史的側面であり、東洋と呼ばれる諸地域の現状を研究するものではない。一般に東洋学とは、「東洋」諸地域における古典学・文献学的研究のみを意味し、これらの地域の(特に政治・経済・社会などの)現状を分析する研究は、一般には東洋学には含まれないとみなす傾向が強い。古典学でない現状分析的研究は、「アジア(の)地域研究」「アジア学」と呼ばれることが多く(ただしその名称は十分に定着しているとはいえない)、場合によってはアジア各国・各地域を対象とする地域研究(中国研究・中東研究・インド研究など)に分離されると考えられている。これと同様な議論は、東洋学に包括される各地域の研究、例えばインド学や中国学にも生じており、古典的・伝統的・歴史的文化の研究と、同時代の(地域研究的な)現状研究を一つの学問分野にまとめることが可能か否かが論じられている。ただ、後述するように(古代)オリエント学、エジプト学アッシリア学などについては、その研究対象は歴史的存在である古典文化の研究に限定されていることは当然の前提となっている。また他に、歴史的領域であっても近代以降(すなわち列強の「東洋」進出以降)については「東洋学」には含まれないという見方も根強く存在する。
歴史的展開

東洋学は、主として19世紀以降の「東洋」諸地域における欧米列強(のちに日本も加わる)の文化的征服と自らの文化的起源の探究と強く結びついて発展したとみることができる。
東洋学前史
古典古代

西洋における「オリエント(東洋)」への関心と知的探求の始まりは、古典古代地中海世界まで遡り、ヘロドトス歴史』には、彼らが東洋と考えていたエジプトペルシアスキタイ地方についての見聞や伝承が記録されている。またローマ時代の紅海 - インド洋交易の進展により、さらに東方のインド・中国の物産についての知識が増加した。
中世・近世ヨーロッパ

東洋に関する知識・情報が学問的な研究活動と結びついたのは中世以後のことである。十字軍レコンキスタによって生じたイスラーム世界との接触・交流を背景に、西欧世界ではイスラーム圏で保存・研究されていたギリシア・ローマの哲学など諸学の文献を読解するため、13世紀に主要大学にアラビア語講座が設置された。またモンゴル帝国の征服活動により、ユーラシアの東西を結ぶルートが一時活発化し、13世紀には西欧からマルコ・ポーロなどの商人やカルピニルブルックなどの修道士が使節としてモンゴルを訪れ、彼らの旅行記により中央アジア東アジアについての知識が広まった。15世紀になってオスマン帝国(トルコ)が強大化して東方からヨーロッパ諸国を脅かすようになり、また西欧との外交・貿易関係が活発なものになると、風俗・習慣に始まり国家制度・社会機構に至るまで、トルコ全般に関する体系的知識がもたらされるようになった。さらに16世紀以後大航海時代を背景に、カトリックの宣教師が教勢拡大をめざしインド・中国・日本での布教を進め、東洋全般に関する西欧の知識はより拡大された。しかし、これらの知識が「東洋学」の名の元で学問分野として制度化されるのは19世紀まで待たなければならない。
文化的征服と起源の探究1866年に撮影されたアンコール・ワット / カンボジアのアンコール遺跡のなかでも中心的な遺跡として知られ、19世紀後半以降フランスによる調査が行われたアフガンをめぐるロシア(熊)とイギリス(獅子)の対立を描いた風刺漫画(1878年)


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