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東洋大学硬式野球部東洋大学のユニフォーム(画像の選手は藤岡貴裕)
加盟団体東都大学野球連盟
本拠地埼玉県川越市鯨井2100
創部1924年
監督井上大
公式サイト ⇒公式ウェブサイト
リーグ戦成績
リーグ成績優勝 20回
全日本大学野球選手権大会
出場回数13回
最高成績優勝 4回
明治神宮野球大会
出場回数7回
最高成績優勝 2回
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東洋大学硬式野球部(とうようだいがくこうしきやきゅうぶ、英: Toyo University Baseball Club)は、東都大学野球連盟に所属する大学野球チーム。OBには50人以上の現役・元プロ野球選手がいる。東洋大学の学生によって構成されている。 1924年(大正13年)に創部(大正13年同窓会会則)され、翌年に学友会の一部として独立した[1]。前年1923年(大正12年)に文化学科の学生たちが中心となり、野球部新設を境野哲学長に要求したが、グラウンドもなく、監督の方法も立っていないということで許されなかったという[2]。 1925年(大正14年)、國學院大、専修大などが中心となって東京新大学野球連盟(1925年)が結成され、その翌年には青山学院、高千穂高商などが加わって東京新十大学野球連盟と改称した。東洋大学もこれらのリーグに参加したが[3]、各参加校の都合でしばしば問題を起こし、永続しなかった。 1931年(昭和6年)、東洋大・東京文理科大・拓殖大の三大学野球連盟が結成された。三大学野球連盟は翌1932年秋に東京工業大が加わって四大学野球連盟となり、翌1933年秋には東京商科大が加わって東京新大学野球連盟(1933年)と改称した。しかし、翌1934年5月27日の東工大対拓大戦で乱闘騒ぎがあり、その処置に関して6月3日に幹事会が開かれたが、このとき東洋大幹事が拓大に対して脱退を勧告したところ、拓大側は憤慨して同幹事を殴りつけ、さらなる暴行沙汰となったため東京新大学野球連盟は分裂し[4]、東洋大学は再び戦いの場を失った。 1940年(昭和15年)、東都大学野球連盟に加盟。戦前は下部(2部)に所属し、戦後の1946年(昭和21年)春に再開されたリーグ戦も2部で始動した。 1951年(昭和26年)春の入替戦で青山学院大に敗れ秋に3部降格。1954年春の入替戦で東京工業大を下し秋に2部に昇格したものの、1958年秋の入れ替え戦で青山学院[5]に敗れ翌59年春に3部降格。
創部
歴史戦前の東洋大学野球部