東欧諸国のビザンティン建築
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東欧諸国のビザンティン建築(とうおうしょこくのビザンティンけんちく)では、ブルガリアロシアルーマニアに伝播したビザンティン建築を便宜的にまとめる。

東ローマ帝国の1000年以上もの長期に渡る歴史は一様ではなく、その支配領域は絶えず変化し続けた。周辺地域へのビザンティン建築の影響について考えるとき、必ず直面するのがこの問題であり、バルカン半島南部とアナトリア半島以外の建築物であっても、ある時期のある地域の建築物は、ビザンティン建築の項で取り上げられたとしても不思議ではなく、その逆も考えられる。また、特定の建築的伝統を保持した勢力がビザンティン建築を採用した場合は、その形態は折衷的なものになるが、アルメニア建築(英語版)のように、ビザンティン建築そのものに影響を与えるような場合もあった。しかし、これはビザンティン建築のなかで取り上げるにはあまりに複雑な背景を持つため、本項ではビザンティン建築とは別に、東欧諸国へ波及していったビザンティン建築の影響について解説する。
概説ブルガリア王クルム(左端の人物)
東ローマ皇帝ニケフォロス1世の頭蓋骨で造らせた杯が王の前に差し出されようとしている。これは後代の伝説である。聖キュリロスと聖メトディオス

中世ビザンティン文化の影響下に入った東欧諸国は、正教とその建築を受け入れ、多くの場合、東ローマ帝国が滅びた後もその伝統を守り続けた。しかし、長い歴史を紐解くと、東欧の諸民族と東ローマ帝国との接触は決して和やかなものでも、安定したものでもなく、実際には熾烈な衝突を繰り返した。東ローマ帝国の文献には、北方からやってくるアヴァール人マジャル人ブルガール人といった敵対していた民族との戦いが数多くつづられている

彼らのような異民族のなかで、600年頃にドナウ川を渡って南下したスラヴ人の一部[注釈 1]はバルカン半島に定住したが、彼らは初期の段階ではローマ帝国に対抗しうる文化は持たず、ローマの建築を取り入れるような素地は全く持ち合わせていなかった。スラヴ人は7世紀ブルガール人のブルガリア帝国、9世紀頃にはヴァリャーグキエフ・ルーシに組み込まれるなど、どちらかというと被支配層に甘んじていたが、その圧倒的な数の多さと素早く異文化を吸収する能力でこれらの非スラヴ系民族を同化していき、バルカン半島では10世紀までに最も数の多い民族となっていた[1]

東ローマ帝国にとって最初の脅威となったブルガリア帝国は、首都コンスタンティノポリスに近く、またその侵攻を遮るもののない場所に成立した勢力であった。一時的にフランク王国とも結ばれ、東ローマ帝国を大いに悩ませたが、9世紀にイスラームに対して軍事的優位に立ち、東方の脅威を取り除いた東ローマは、フランク王国に対抗すべくスラヴ人をキリスト教化していった。聖キュリロス聖メトディオスの使節団によるモラヴィア王国の布教活動と、その後の聖メトディオスによるパンノニアブルガリアの布教活動によって、ブルガリア帝国はキリスト教を受け入れることとなり[2]、建築についての知識をもたなかったこの地域は、東ローマ帝国の施工技術や知識を積極的に取り入れることになる。

東ローマ帝国にとってブルガリアの次に脅威となったのはルーシ地方(現・ロシア)のヴァリャーグたちであった。中世にはヨーロッパ屈指の勢力を誇っており、9世紀から10世紀にかけて、艦隊を伴ってコンスタンティノポリスを包囲するほどの軍事能力を備えていた。東ローマ帝国のキリスト教の伝道師は7世紀には派遣されたが、北欧の神々を信仰する彼らの改宗についてはかなりの時間を要し、ウラジーミル1世がキリスト教を国教と定めたのは、ようやく10世紀末のことであった。しかし、ブルガリア帝国を牽制したい東ローマ帝国はルーシ(キエフ大公国)を懐柔することを望んだため、両者の交流は10世紀末から急速に親密となった[3]。この時期、ブルガリア帝国は皇帝バシレイオス2世によって瓦解寸前にあり、スラヴ人のキリスト教文化は、彼らルーシによって継承されることとなった。

セルビア人がキリスト教に改宗したのは、ブルガリアとほぼ時を同じくすると考えられている。しかし、当初はブルガリア帝国に隣接するこの地域はあまり重要視されておらず、ブルガリア帝国と東ローマ帝国の勢力範囲にも組み込まれることがあった。旧ユーゴスラヴィア圏において、セルビア人による強力な国家が誕生するのはようやく12世紀になってからであり、経済的には西欧諸国との結びつきも強く、その歴史はたいへん複雑である。
地域と歴史
ブルガリア

東ローマ帝国にとって最初に脅威となったブルガリア帝国の歴史は、不連続である。彼らは680年頃からバルカン半島北部に定住するようになった、軍事的によく組織された勢力であった。800年前後には早くも東ローマ帝国に圧力を加え、813年にはコンスタンティノポリスを包囲するまでになるが、864年ボリス1世がキリスト教に改宗し、ビザンティン文化を取り入れるようになった。ただし、東ローマ帝国との関係はその後も安定せず、927年には最盛期の王シメオン1世が皇帝を称して東ローマ帝国に敵対するとともに、コンスタンティノポリスから独立したブルガリア正教会を設立する。しかし、その後を継いだペタル1世の治世に急速に衰退し、皇帝サムイルの時代である1018年にバシレイオス2世によって東ローマ帝国に併合されている。その後200年間、ブルガリア帝国は姿を消すが、東ローマ帝国が解体されはじめると反乱を起こし、イヴァン・アセン1世によって独立を勝ち取った。ラテン帝国に対抗し、イヴァン・アセン2世の時代には帝国の領土は最大となるが、モンゴル帝国との戦争によって国土が荒廃、ニカイア帝国との戦争にも破れ、1396年にオスマン帝国に占拠されるまで、細々と存続した。
第一次ブルガリア帝国とビザンティン建築ボヤナ教会
左側の部分が2層式内接十字型の墓所聖堂。

ブルガリアの初期の建築について知られていることはないが、この地に定住したスラヴ人にもブルガール人にも、建築的な伝統はなかったと見なされている。ブルガリア帝国の首都となったプリスカとプレスラフからは、バシリカや広間などが発掘されているが、これは彼らが残したものではなく、それ以前に住んでいたローマ人かビザンツ人による建築物であると考えるのが妥当である[4]

ブルガリア帝国の建築活動が活発になるのは9世紀以降で、首都プレスラフでは、シメオン1世によってビザンティン建築の伝統からはおおよそ異なった形式にみえる円形教会堂が建設された。現在も下部構造が残るが、恐らくこれはバシレイオス1世がコンスタンティノポリスに建立した、アルメニア建築から着想を得た預言者エリヤの教会堂の複製と推察される[5] [注釈 2]。また、それ以外のブルガリア帝国によって建設された教会堂は、典型的な内接十字型の平面を持ち、ビザンティン建築の影響が非常に強く、ブルガリアの独自性はほとんど認められない[7]。シメオンの死後、ブルガリア帝国は滅亡し、バシレイオス2世によってプレスラフは破壊された。


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