東横映畫株式會社
Toyoko Eiga Co., Ltd.種類株式会社
市場情報合併消滅
略称東横映画、東横、TYK
本社所在地 日本
東京都品川区五反田1丁目272番地 白木ビル3階 (1951年)
本店所在地京都府京都市右京区太秦西蜂ヶ丘
東横映畫株式會社(とうよこえいが、1938年6月8日 設立 - 1951年3月31日 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。東急資本のもとに映画館経営から出発し、第二次世界大戦後に旧満洲映画協会(満映)のメンバーを中心にして、京都・太秦の「大映第二撮影所」で劇映画を製作した。東映の前身の1社である。 1938年(昭和13年)6月8日、東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の興行子会社として設立。社長は同電鉄の五島慶太、資本金は30万円。設立に先立つ同年3月、渋谷に開場した「東横ニュース劇場」、同年11月に開場した「五反田東横劇場」を経営。1943年(昭和18年)、昭和興業、新宿興業、京浜興業を合併して資本金を50万円に増資、劇場を7館に増やす。 1944年(昭和19年)3月、五島に代り浦川睦臣
略歴・概要
1947年(昭和22年)、大映との協定を結び、「大映第二撮影所」を借りて製作する準備が始まる。同年9月、資本金を2,000万円に増資、同撮影所を「東横映画京都撮影所」とし、旧満映のメンバーを中心に製作を開始。設立第1作は稲垣浩監督、上原謙・轟夕起子主演による『こころ月の如く』で、同年9月16日に大映の配給により公開する[1]。
1949年(昭和24年)5月、資本金を5,000万円に増資、同年9月、黒川に代り比嘉良篤が社長に就任。同年10月1日、映画配給会社「東京映画配給」を設立、従来の大映から配給を移管。移管後の第1作は松田定次監督、片岡千恵蔵主演による『獄門島』で、同年11月20日から公開された [2]。同年12月、比嘉に代り鈴木幸七が社長に就任した。
1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して「東映」となる。東横映画撮影所は「東映京都撮影所」に、太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」になり、東京映画配給の配給・興行の機構は、本社および支社、直営館として東映を構成した。
同社は、製作会社としては、1947年3本[1]、1948年10本[3]、1949年12本[2]、1950年26本[4]、1951年6本[5]、合計57本を製作した。
2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、『のど自慢狂時代』(監督斎藤寅次郎、1949年)、『獄門島』(監督松田定次、1949年)、『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(監督関川秀雄、1950年)、『殺陣師段平』(監督マキノ正博、1950年)の4作のほか[6]、『三本指の男』(監督松田定次、1947年)[7]、『にっぽんGメン 第二話 難船アの血鬪』(監督松田定次、1950年)[8]、『乱れ星荒神山』 (監督萩原遼、1950年)[9]、『千石纏』(監督マキノ雅弘、1950年)[10]、『女賊と判官』(監督マキノ雅弘・萩原遼、1951年)[11]の5作の上映用プリントを新たに収蔵した。東映チャンネルは、上記のほか、『にっぽんGメン』(監督松田定次、1948年)[12]、『旗本退屈男捕物控 七人の花嫁』(監督松田定次、1950年)[13]、『旗本退屈男捕物控 毒殺魔殿』(同)[14]、および『レ・ミゼラブル あゝ無情 第一部 神と悪魔』(監督伊藤大輔、1950年)と 『レ・ミゼラブル あゝ無情 第二部 愛と自由の旗』(監督マキノ雅弘、1950年)を133分にまとめた「総集篇」[15]を放映している。福岡市総合図書館が所蔵するものは、上記『殺陣師段平』のみである[16]。全57作中、13作のみ、現存が確認されているということである。
企業データ
所在地 : 東京都品川区五反田1丁目272番地 白木ビル3階[17]
事業内容 : 映画の製作・配給・興行
設立 : 1938年6月8日
資本金 : 5,000万円 (1949年)
代表者 :
五島慶太 (1938年)
浦川睦臣 (1944年)
黒川渉三 (1946年)
比嘉良篤 (1949年)
鈴木幸七 (1949年)
撮影所
名称 : 東横映画京都撮影所 [17]
所在地 : 京都府京都市右京区太秦西蜂ヶ丘9番地 [17]
フィルモグラフィ『のど自慢狂時代』、1949年。『こんな女に誰がした』、1949年。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』、1950年。『俺は用心棒』、1950年。
大映の配給
1947年 [1]